95歳まで生きるためには | ”秋山なお”の美粒ブログ

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音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
微粒は、美流でつくられ、美粒となります。その思いをつづっています。

 私は、絶対的な神の存在を信じている。だから、その神の聖霊の波動と同期できるように調息、調心、調身を行っている。気功でもヨガでも太極拳でも、身体をリラックスして呼吸を整えることは、基礎の基礎になっている。私は、神を信じているから、神の義となる美しい秩序あるイメージを想定している。それは、穏やかで優しいイメージである。腹式呼吸で、息をゆっくりと強く吐く。それに連動して、身体のリンパも全身へと流れる。血液が心臓で流れるように、リンパは、呼吸によって全身へと流れる。そして、精神が集中するから、手の平がおもたく、そこに気が集まってくる。神の聖霊を呼び込むことで、リンパが循環し、身体が綺麗になる。

 


 人間は不安定なものである。我執や我欲がある、業である。それを守ろうと、我をはれば、自己中心的になり、自爆していく。回りとの協調性がなくなるから、いつしか、自分しか見えなくなる。だんだんと、傲慢になり、自分自身が重たくなる。老化が加速していき、いつしか、この世から消えることになる。なぜなら、不安定だからである。自分の外に神を置かなければ、自分の我をどのようにして、この世と調和させていくかが、最大のテーマになるからである。そうすれば、仏教的に、煩悩を絶つこと、自己を滅することになるだろう。我執や我欲をなくし、空性になるということである。それも、自己を洞察するには、いいことである。禅の精神は、永遠の中にこの一瞬を感じることである。自己を空相にすれば、自己のありようは永遠と同期することになる。確かにそういう捉え方もあるし、そういう生き方もある。しかし、私には、どうしても、神という存在を否定することはできない、自分は神の因果によって、作り上げられたもの、そうして、神の因果によって、消滅するもの、それ以下でもそれ以上でもない。

 


 今は、夜の9時すぎには、オリオン座が西からのぼっている、夜空をみれば、だれでもそれに気づく。しかし、数か月前の深夜、夜の帳が下りて、街が静寂に包まれた時、西の空を見る人はいなかっただろう。そこに、オリオン座の三つ星が、縦にならんで輝いているのが見えたはずである。古の人は、その星星を見たとき、そこに、神の力を感じたにちがいない。この世の摩訶不思議なものがそこにあると感じたに違いない。オリオンの上にはおうし座のアルデバランが輝く、そして、その横には、ぎょしゃ座のカペラがある。オリオン座が上がってくれば、その下に、一番明るい星、おおいぬ座のシリウス、そして、こいぬ座のプロキオン、その横に、ふたご座のポルックスとカストルのふたご星が見える。都会の空でも晴れていれば、その星星は明るいから必ず識別できる。もちろん、地球からみれば、そういう風にみえるのだが、実際は、奥行きがばらばらだから、視点をかえれば、我々がみているのとは、まったく異質なものになる。なぜ、そんな星があるのか、だれもそのそもそも論に答えなどだせない、神様がつくったとしか言えないからである。

 


 昔から、悪いことをすると罰があたると言われた。法律的にいえば、法律で規定していることを破れば、罪となり、その罪の報いとして罰が与えられた。罪と罰という関係は、法律だけではない、律令的な宗教には、規律があり、それを守らない状態が罪であり、それが悪となり、罰が与えられる。悪いことをすると、罰があたるというのは、たわけたことだと思っていたが、実際に人生での動きをみていると、それは当たっているように見える。私には、神の因果、私の言葉でいえば、美しい秩序に反するようなことがあれば、それが悪となり、ある意味、罪という状態になり、それによって、神からの罰があたる。人をうらぎったり、人をだましたり、人のものを盗んだりすれば、どうなるか、ほとんどが、ろくな人生を歩んでいない。悪いことをしたなら、天罰があたるというのは、当たっているのである。

 


 長生きしている人は、信仰心が深い。自分の外に神様のようなものを置いている。絶対的な信頼を置いている。だから、悪いことなどしない。毎朝、仏壇にむかってお線香をあげて、お経を読み、ご先祖様を供養している人もいるだろう。いずれにしても、どんな形態にしろ、自分の外にある、神様のようなものと、対話をしている。聖書を読んで、神格化されたイエスに自分の心を預ける人もいるだろう。讃美歌をうたい、浄化するひともいれば、お経をよんで、心を休める人もいるだろう。そこにどれがいいかわるいかなどという判断もない。

 


 身体さえ、柔軟性を保持するように鍛練し、呼吸法を考えて、神様を信じて、悪いことをしないで、世のため人のために、尽くせば、95歳まで、だれでもが生きられるように思える。世の中には神などいない、好きなように生きればいいのだ、だますより、だまされる方が悪い、正義とは金である、そうやって自己中心的に生きていたら、どこかで、罰が必ずあたる。現世ではいいように思えるが、死の兆候が現れた時から、密度の高い罰がその人に襲いかかる。健やかにはあの世へとはいけないはずである。