貧乏人における費用対効果のある知的生産の技術 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
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 むかし、包括的事業提携という言葉につられて、ひどい目にあったことがある。それと、意外と、私は物分りがよくて、自社の研究開発に対しては、NOといわなかった。若い技術者や、年配の技術者にも、だいたい、GOを出した。しかし、物事を安く作るという才がなかったのだろう、精度=技術力=コストという錯覚から、抜け切れず、結局、新規なものは、彼らは作れなかった。金をかければ、人は寄ってきて、それなりのものを作る。しかし、そこに、イノベーションがないから、亜流で終わってしまう。彼らは、去っていったが、新しい現場でも、同じことを繰り返しているだろうと思う。包括事業提携した会社も、我執が強くて、彼らの思惑で、すべてを仕切ろうとした。結局、関連した人は、だれもいなくなってしまった。どろどろとした人間の我執と我執のつばぜり合いを見たような気がする。失ったものは、莫大だが、その結果、得たものもあった。人生、一度きり、そう思えば、いい勉強をしたと思っている。それをどう教訓として、社会に還元できるか、今は、そう思っている。

 

 人生、何があるかわからない。結局、神様は、自分でつくれといっているようである。そうすると、大体、資金というのは、人をめくらにする。大手の企業から、はしごをはずされたから、資金がなくなった。企業であるから、借金が残ったといったほうがいい。しかし、金はないが、パソコンの中には、いろいろな図面等があったし、いろいろな、部品や機械加工の寄せ集めがあった。ある意味、金がないというのは、人間を追い詰める。もはや、逃げるところはない。そうすると、ひらめくものが出てきて、すべての手筋が見えてくる。新しい発想、新しいシステムが、自分のところに実は転がっていたものの組み合わせて出来上がった。視点を変えると、そこにあったものが、違うものとして再生できた。いままで、誰も考えなかったことが、簡単に、安易に、廉価に出来上がるものである。金がない、貧乏、そうすると、金がなくても、できる方法が、向こうから(神様から)くるものである。もし、包括的事業提携がうまくいっていたら、私は、安易な人生を送っていただろうと思う。金がないから、考える。金がないから、どうしたらいいか、工夫する。貧乏になったから、常に、費用対効果を考える。そして、どうしたら、知的生産の技術を実践できるかを考える。人生、一度きり、金があったら、金があるなりのやり方しかできない。それは、亜流のものしかできない。そう、金があれば、だれでも、できるからである。金があれば、レクサスやBMGやベンツにのればいい、最新鋭のパソコンをそろえたらいい、のぞみのグリーンや、飛行機のファーストにのればいい。コストを考えず、費用対効果を考えず、資金を、誰かに運用して、回せばいい。お金は自然と入ってくる。しかし、そこからは、何も生まれないし、何も育たない。そうして、人生の終わりがくる。

 

 私は、プリウスに乗っている。なぜ、乗るか、安いからである。月々のリースでまかなっている。初期の車検も税金もいらない、保険だけと整備費はいるが、それは、どの車を乗っても同じである。なぜ、プリウスかといえば、貧乏だからである。貧乏だから、リッター27-28kmをどうしたら、維持できるか、考える。そして、仕事で荷物があれば、東京だろうが、広島だろうが、大阪から、往復1000kmぐらいのところは、プリウスでいく。ガソリン、6000円ぐらいでいける。もちろん、高速も、費用対効果を考えて乗る。車に乗っている間、最新のスマートフォンとカーナビの間で通信ができるから、ずっと、音楽を聴いている。貧乏ながらのリッチ感が味わえる。

 

 東京へいくにも、新幹線は使わない。EX予約で、安くのれるが、昼間の高速バスをつかう。5000円―6000円でいける。その間、じっくりと、本を読むことができる。普通の人は、昼間の高速バスなどつかわない。なぜ、使うか、貧乏だからである。貧乏だから、常に費用対効果を考える。コストに対して、新幹線は意外と、費用対効果がないからである。

 

 事務所も、コスト削減で、安いところにいる。しかし、空調は効いているし、自宅から近いから、非常に便利である。自転車で、通っている。たぶん、オフィスツールは、最強のものである。かけ放題の携帯、ただで、カラゲーをもらった。スマートフォンも、最新式のもの、ポイントでただである。そして、定額の高速ルーター、これも、機器はただである。そして、月々、定額13000円前後である。便利になって、最新式になって、コストが下がった。そして、2万で、5年落ちのパソコンを買った。とんでもないものである。この文書もそれで、らくらく書いてある。ぜひ、このやり方は、まねしたらいい。

 

 それなりの仕事はしているから、それなりの収益は入ってくる。しかし、相変わらず、貧乏である。その収益は、借金の返済になるが、それより、その資金は、あたらしい技術開発に対して投資している。資材をかって、どんどん、バージョンアップしている。私は、今、30年や50年先を見ている。もう、30年先には、私はこの世にいないかもしれないが、私が作った技術で、世の中がよくなってくれたらいいと、思うだけである。我執からは、何も生まれない。我欲からは、既存のもの、亜流のものしか出てこない。貧乏になり、退路が立たれて、人は、前をみる。そこに、光があり、そこに、導かれるだけである。

 

 地方都市のホテルにとまった。なぜか、5000円で、最安値だった。古く格式のあるホテルだった。白い木製の机があった。何気なく、引き出しを開けてみた。そこに、案内と赤い表紙の新約聖書があった。まったく、きれいな、だれも、ページを開いたことがないようなものだった。それを手にとって、なにげなく開いてみた。ヨハネによる福音書がでてきた。「はじめに、言葉があった。言は神とともにあった。言は神であった」、ネットで調べたら、その協会の聖書は、寄付で、自由に持って帰っていいものだと、書いてあった。こんな地方都市のホテルの一室の机に、ずっと、眠っていたのだろうと思った。私は、この聖書を持ち帰った。その中に、どれだけの人の思いが集約されているか、私は、それをパソコンの横においている。無償の愛、確かに、アメリカの友人に、いろいろと助けてもらった。彼もクリスチャンである。そして、日本の先生にも、助けてもらっている。その先生もクリスチャンである。彼らは、見返りを要求しない、ひとことでいえば、無償の愛である。持ち帰った聖書、ひと粒の麦に等しい。かれるかもしれないし、大きく育つかもしれない。そこに、見返りなどない。

 

 貧乏だから、費用対効果を考える。それこそが、知的生産の技術の根源になる。そして、そのベースとなるのが、無償の愛である。そこに、我執や我欲があれば、なにも、生まれない。

 

 アメリカの市場経済、しかし、そこには、プロセスタントの倫理感がある。神の下では、人は平等であるという考えである。だから、いつも、どこかで、神の見えざる手が働く。それこそ、プロセスタントの倫理感である。しかし、日本にはそれがない。日本にあるのは、忠義である。親と子、師弟、親方と弟子、そこに、信頼関係があった。親方は弟子を守る。弟子は親方を裏切らない。それが、日本の終身雇用制の基礎となった。それが崩れたら、どうなるか、日本では、企業はそだたない。ベンチャーもどこかで、崩壊する。なぜなら、アメリカの市場経済の仕組みを盲従するからである。だから、日本で育つ企業は、立派な経営者がいる企業でしかない。この人のために、命をささげてもいいと思える経営者以外、この国では、伸びていかない。我欲や我執のつよい経営者は、この国の市場経済の中では、いつか、滅びる。

 

 利益優先、そのために、人を切り捨てる。利益優先、そのために、平気でうそをいう。そういう経営者に、誰も、命をささげてもいいとはおもわない。だた、右顧左眄的につきあい、お世辞と貢物だけが、唯一のコミュニケーションとなる。そういう会社は、いずれ、つぶれる。日本が戦後、立ち直れたのは、武士道と利他と慈悲の大乗仏教的な倫理感があったからである。豊かになって、日本人は、無償の愛を失った。もう一度、貧乏になり、そこから、費用対効果を見直し、日本式の知的生産の技術を復活してもらいたい。そう願い、30年後50年後の未来のために、今をがんばる。