日本人にとって、中国語と英語、どちらが費用対効果があるか? | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 昔、20代の時、頻繁に中国へ行かされた。当時は、化粧品関連の装置メーカーに勤務していた。中国がその時、開放政策ということで、日本から、設備を導入していた。合作ということで、日本の化粧品会社もどんどん、日中友好ということで、中国からの訪日団を受け入れた。そのため、人手が足りなかったから、機械の据え付け等で、あちらこちらと、引きずりまわされた。中国のいろんな所にいったし、いろんな中国料理もたべた。その間に、どこかで展示会があって、いたる所へ連れていかされ、雑用をこなした。そうすると、北京、上海、広州等の友好商社の事務所で、顔なじみのメーカーの人と、再会することが多かった。私は、一回、大阪にかえって、再び、上海に戻ってきたら、帰る時に、一緒に食事をした人とまた、再会したことがあった。「やっと、明日、日本へ帰れます」「あれからずっと中国におられたのですか」「そういうことです」「ご苦労なことです。」

 

 今となっては、楽しい思い出になっている。大体、そのとき、わがままなメーカーの人間の通訳やアレンジをしてくれるのが、友好商社の若い社員である。若いお嬢さんもいたし、おにいちゃんもいた。大体、みんな中国語は、ペラペラだった。商談でも、技術説明でも、それなりの中国語を駆使していた。当時は、中国語など、わからなかったから、すごいなと感心した。ほとんどが、中国語学科を卒業した人だった。その間に、北京に留学して言葉を習得した人が多かった。その時、思ったのは、英語学科や英文科を出ても、よほど優れていない限り、まともに、英語を話す人などいなかった。いくら、やっても、日本人のへたな英語だとすぐ分かった。しかし、友好商社に勤務するお嬢ちゃんやお兄ちゃんの中国語は、テレビやラジオできく、中国人の言葉と大差なく聞こえた。

 

 私は、費用対効果という言葉が好きである。いたるところにその言葉を使う癖がある。もし、高校3年生が2人いて、能力は大差ないと仮定する。一人は英米学科に入ったとしよう、もう一人は中国語学科に入ったとしよう、大学のレベルは、中ぐらいとしよう。4年間、二人ともしっかりと勉強して、ふたりとも、短期だが、アメリカと中国に語学留学をしたとしよう。無事、大学を卒業したとしよう、ひとりが、商用で、アメリカにいき、一人が北京に商用でいったとしよう。

 

 ネイティブの言葉についていけず、よくわからない思いをひとりはする。ひとりは、それなりにわかって、にこりとする。同じ時間を勉強したとしたら、日本人にとって中国語は容易な言語になるのである。アメリカ人が同じ時間中国語を勉強したとしても、日本人のレベルには到着しない。富士山の頂上に登ることにたとえるなら、日本人は、五合目から上ることになり、アメリカ人は、ふもとから上ることになる。英語でいったら、日本人は、ふもとから、中国語でいったら、五合目から、だから、同じ時間学習なら、中国語を学んだ人は頂上にいるが、英語を学んだ人は、まだ五合目付近をうろうろしていることになる。

 

 その差は、何かというと、日本人は漢字をしっているからである。だから、すこし、簡体字の仕組みを学べば、中国の新聞を、漢字だけおっていても、何をいっているか、大体察しがつく。しかし、英語は、単語がわからなければ、お手上げ、やはり、単語の意味がわからないと、全体が見えてこない。

 

 中国人が一番、生活しやすい国は、日本だと思う。なぜなら、漢字があるからである。韓国にいってもわからない。ハングルだからである。日本語はわからなくても、漢字がわかるから、一人で、どこでも行ける。中国人も英語がわかるから、漢字と英語で、一人でも、旅行できるはずである。私も当初、中国へ行っても、まごつかなかった。なぜなら、漢字がわかるからである。

 

 中国語のいいところは、漢字とその発音が、ほぼ一対一になっているので、発音の仕組みさえ、分かれば、中国語が読めることになる。たぶん、中国語の90%は、辞書なくて、分かるはずである。後は、類推でなんとかなる。

 

 今は、日本と中国はぶつかっているが、そのうち、ネット上では、簡易翻訳が機能するから、日本語と中国語変換は、それほど問題がないはずである。そうすれば、若者どおしでの意見がぶつかり合う。やがて、双方の理解が深まり、文化交流がすすんでいくだろう。後数年したら、事態は変わっているはずである。そして、中国の大気汚染が改善されて、北京にも青い空が広がることを期待したい。