南京攻略80年記念大講演会

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80年前の12月13日、日本軍は南京を攻略した。
南京事件は中華民国の戦時宣伝である。
80年を機に歴史捏造の払拭を!
 
なぜ外務省は南京事件を認めるのか?
近隣諸国条項も、日中共同歴史研究も、外務省が主導した
外務省はホームページから南京事件の項目を消せ。
 
国会議員の先生方が熱く語る大演説会
 
原田義昭(衆議院議員・自民党)
松原 仁(衆議院議員・希望の党)
山田 宏(参議院議員・自民党)
渡辺 周(衆議院議員・希望の党)
 
日 時: 12月13日(水) 午後6時30分開場、6時50分開演
会 場: 文京シビック小ホール
     東京都文京区春日1-16-21 
参加費: 千円・学生は五百円
主 催: 南京戦の真実を追求する会(会長 阿羅健一)
HP :http://howitzer.jp/history/index.html
問い合わせ先:Eメール howitzer@waltz.ocn.ne.jp  FAX 03-5275-2355
 
協賛 
映画「南京の真実」製作委員会/英霊の名誉を守り顕彰する会/SOS-JAPAN緊急SOS日本国民行動/主権回復を目指す会/チャンネル桜エンタテインメント/展転社/東京教育憩話会/東京郷友連盟/南京の真実国民運動/日本近現代史研究会/日本政策研究センター/日本の名誉を守る会

 

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第二回講演会 南京事件の捏造に関わったアメリカ

 

日   時:  9月29日(金) 18時30分~20時30分(18時開場)

 

会   場:  文京シビックセンター3F シビックホール会議室1、2

 

講   師:  江崎道朗

 

参加費:  一千円、学生は五百円

※1  事前申込みの必要はありません。直接お越しください。

※2  終わってから講師を交えて懇親会を開きます(お酒飲む人3,000円 お酒飲まない人・学生2,000円)

 

主   催:  南京戦の真実を追求する会(会長 阿羅健一)

 

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渡部昇一会長を悼む

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「南京の真実国民運動」の会長を務めていた渡部昇一氏が4月17日に亡くなった。

 

知らせを受けて安部首相や稲田防衛大臣がご自宅を訪れ、5月30日に聖イグナチオ協会で行われたミサには安部首相、麻生副総理、稲田防衛大臣たちが参列した。渡部会長の識見と博識に深く尊敬してからであるのは言うまでもない。

 

「南京の真実国民運動」の会長を務めていたことからわかるように、渡部会長は南京事件がねつ造されたものであることを早くから指摘していた。

 

「ドイツ参謀本部」という名著があって軍事に詳しく、南京戦の戦闘についても詳細に把握していながら、しかし、くどくどと講釈することはなかった。

 

昭和17年6月からのミッドウェイの戦いで日本海軍は空母4隻を失うという打撃を被った。海軍が発表したミッドウェイ海戦は実態とまったくかけ離れたもので、戦闘に参加した水兵たちは隔離されたこともあり、国民は全く知らなかった。渡部会長は山形県の庄内に生まれ、東京から離れていた。そしてまだ子供だったが、日本海軍がミッドウェイで大敗北を喫したことを大人が話していることを耳にしていた。

 

山形の庄内でもこうだから、もし南京で虐殺があったなら、すぐに荘内にも広まったでしょう、とわかりやすい話をした。

 

また、教科書誤報事件から、中国は日本を攻撃するため南京事件を持ち出していると分析し、外務省が中国に対して弱腰になっていることが南京事件を既成事実化していると指摘した。平成24年に河村たかし名古屋市長が父親の体験から南京事件はなかったと考えるしかないと発言した。中国は強烈に反応した。ただちに柔道大会を中止し、南京市関係者の名古屋訪問を禁止した。

 

このとき渡部会長は、これまで日本は南京事件を否定し、中国に反論されると取り消してきたが、南京事件は根拠がないので撤回しなければ中国は必ず引き下がる、河村たかし市長がなすべきことは発言を撤回しないことだ、と声をあげた。

 

河村市長は、中国からだけでなく地元の中日新聞からも厳しく批判されたが、撤回しなかった。

 

河村市長が事件を否定したとき、事実のすり合わせをしようと中国に提案したが、中国は乗ってこなかった。批判もまもなくやんでしまった。

 

渡部先生は戦術だけでなく戦略にも長けていることを証明した。

 

安部首相、麻生副総理、稲田防衛大臣たちは、南京事件についての渡部会長の考えに納得し、戦略にも長けていた渡部会長に心から敬服していたのである。

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中国に勝利したアパホテル

今年1月17日、突然、中国外務省報道官がアパホテルに置いてある「理論近現代史学」は南京大虐殺を否定していると批判しだした。アパ書籍問題の始まりであるが、すでにそのころ中国で最大手の旅行予約サイトからアパホテルの予約はできなくなっていた。それに対してアパホテルは、書籍は事実に基づいた歴史を記述したもので撤去はしないとただちに応えた。

 

応酬が続いている19日、NHKが夜のニュースで、2月に開かれる冬のアジア大会の組織委員会が選手団の宿泊先のアパホテルに本の撤去を打診した、と報じ、翌日の朝日新聞も同様のことを報じた。まったくの虚報だったが、これによってアパホテルの書籍問題は中国との問題にとどまらず、冬のアジア大会、あるいは韓国との問題まで拡大した。

 

韓国選手団の一部は冬のアジア大会でアパホテルに宿泊する予定でいたが、書籍は慰安婦の強制連行を否定している。NHKのニュースに煽られたのか、韓国も問題にしはじめ、25日には大韓体育会が大会組織委員会に国際交流という大会の趣旨にそぐわないとの理由で書籍の撤去を求めた。追いかけてアジア・オリンピック評議会が大会組織委員会に中国選手団をアパホテルに宿泊させないように求めた。

 

すると、今度は誤報が流された。

 

アパグループの代表で「理論近現代史学」の著者でもある元谷外志雄氏は、問題が起きると、書籍は撤去しないと明言し、2年前からホテル全館を借り上げる選手村の形の話に限り、利用者の要望に応えるという方針を取ってきた、と語った。そこだけをとらえて1月26日の朝日新聞は「本撤去 アパが約束」との見出しを掲げ、アパが屈したように報じた。まもなくして、中国と韓国の選手団はアパホテルからほかのホテルに変わることが決まった。これが一連の顛末である。

 

虚報、誤報が続いてなかなか真相がわかりにくかったが、中国と韓国の選手団がアパホテルを去ったことからわかるように、アパホテルが書籍を撤去したわけでなかった。

 

NHKはアパに取材もしないで虚報を流していること、朝日新聞も意図的な報道をしていることがわかり、これまでのようにNHKや朝日新聞により外交問題が拡大されていることが明らかになった。

 

それでは、アパホテルにはどんな不利益がもたらされたのか。

 

アパホテルは日本最大のホテルチェーンで、これまでホテル利用者には知名度があったが、広く国民に知られてはいなかった。今回、新聞やテレビがアパ書籍問題を報じることにより、多くに国民がアパホテルを知るようになった。今回の騒動で、アパ全体の5パーセントに当たる中国人が宿泊を取りやめたが、アパの知名度が上がったため新たな利用者が出て、落ち込み分を補った。さらに中国人と間違えられることを嫌っていた台湾人が中国人がいないというのでアパを利用するようになった。

 

この結果、1月から3月までのアパの稼働率と売上高はこれまでの最高記録を達成した。

 

6月2日のアパのパーティの席上、元谷外志雄氏はこう話した。

 

「2020年の東京オリンピックでも書籍は撤去しません」

 

アパの完全な勝利といえよう。

 

アパホテルは「本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたいと考えています」と発表したが、中国は反論もしなかった。4月17日に亡くなった渡部昇一は、日本が南京問題で妥協しなければ、中国は引くと言っていたが、その通りである。

「南京戦の真実を追求する会」が発足

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「南京戦の真実を追求する会」が発足した。かつて「日本『南京』学会」という研究団体があり、「南京の真実国民運動」も活動を行っているが、なぜ新しい組織なのか。「南京戦の真実を追求する会」では次のように語っている。

 

日本にとっていま差し迫っている歴史問題は南京事件と慰安婦である。南京事件はユネスコの世界遺産に登録され、アパホテルのボイコットが起きた。さらにカナダに記念碑が建てられようとしている。慰安婦では、慰安婦像が世界各地に建立され、慰安婦を理由に日系の子供がいじめに遭っている。南京事件同様、ユネスコの世界遺産に登録される危険も抱えている。

 

このように二つは似たような問題を抱えているが、決定的に違う点がある。慰安婦は日本政府が否定し、教科書に記述されることはないが、南京事件は日本政府が認め、教科書に記述され、日々生徒に教え込まれているという点である。

 

慰安婦の強制性が否定されたように、南京事件も否定され、学問上の決着は見ている。南京事件は中華民国が行った戦時宣伝であった。誰がどのように宣伝をやったか、すべて明らかになっている。第一次世界大戦で天文学的な賠償が報復として敗戦国に課せられたが、第二次世界大戦では賠償に代わって戦争裁判が持ち出された。それにより架空の南京事件が事実とされただけのことである。

 

学問上の決着を見たからそれでいいというわけにはいかない。今やアメリカの高校の教科書にまで記述されている。これから北米には次々と記念碑が建てられるかもしれない。南京事件はこれまでにないほど世界に広まる可能性がある。このようなことを考えると、南京事件の実相をもっと国民に知ってもらわなければならない。日本政府には認識を新たにしてもらい、考えを改めてもらわねばならない。それが「南京戦の真実を追求する会」の結成された理由であるという。

 

結成にあたり、さっそく第一回講演会が開催される。憲政史家の倉山満氏が「南京の真実を語る――最強の武器、国際法が日本を救う」と題して講演を行う。第二次世界大戦で勝利国は一方的に敗戦国を裁いただけではないのか、戦時国際法から見て南京事件は認定されたことになるのか、こういったこれまでにない視点からの講演が予定されている。第一回にかぎらず「南京戦の真実を追求する会」ではこのような新たな視点での講演会を開催していくと言っている。

 

ちなみに第一回講演会の日時などは次の通りである。

6月29日(木)午後7時開演、9時終演、文京シビックセンター3階、参加費1000円(学生500円)。

活気づく興亜観音

熱海にある興亜観音が活気づいている。言うまでもなく興亜観音は東京裁判で南京事件の責任者として処刑された松井石根大将が建立している。

 

松井石根は軍人になると主に中国関係を歩み、青木宣純中将、宇都宮太郎大将の系統を引く中国専門家として知られるようになり、松井の系列を引く軍人には原田熊吉中将や和知鷹二中将たちがいた。また、松井は孫文の説く大アジア主義に共鳴、日本と中国は手を携えていかなければならないという信念の持ち主であった。

 

昭和12年8月に上海派遣軍司令官に就くと上海を平定し、10月には中支那方面軍司令官に就任して南京を攻略した。しかしこの4か月にわたる戦いで日本軍は4万数千人という予想もしない犠牲者を出し、中国軍はそれに数倍する犠牲者を出した。松井大将は武人として戦うのにやぶさかではなかったものの、大アジア主義者としての立場から、日中の兵士の霊をそのままにしてはおけなかった。

 

昭和13年2月に凱旋帰国するが、やがてその思いは兵士が斃れた上海や南京の土を使って観音像を作って回向するという形になった。このとき松井は、兵士たちの犠牲のうえに日中友好が築かれるはずという思いから、観音像を興亜観音と名づけた。

 

こうして大きい露仏の観音像と小さな観音像が作られ、熱海の鳴沢山に祀られることになった。これが興亜観音である。興亜観音を守るため、昭和17年には興亜観音奉賛会が作られ、松井石根が総裁、熱海市長が会長に就いた。

 

しかし、敗戦になると、松井が東京裁判の被告となり、さらには絞首刑となったため、また熱海市は興亜観音に関与することが禁じられたため、興亜観音奉賛会は有名無実となる。

それでも松井大将と関係のあった人たちを中心に弧峯会や興亜観音を守る会などが作られて興亜観音を守ってきた。

 

松井大将と関わりのある人がほとんどなくなった数年前から、興亜観音奉賛会が設立された原点に戻ろうという動きが出てきた。当初、熱海市長が会長を務めていたように興亜観音がある静岡県の人々で守っていこうという動きで、熱海市の人たちを中心に住職の伊丹妙浄尼の法話を聞く会などが開かれはじめた。

 

昨年12月23日には新たに14名の理事が選ばれたが、10名は静岡県の人たちで、そのうちの1人として静岡県選出の渡辺周衆議院議員が選ばれている。

 

また、「怨親平等」をもっと知ってもらおうということも決まった。

 

「怨親平等」は仏教用語で、敵も味方もわけへだてなく回向して成仏を願うという意味で、松井大将は興亜観音縁起のなかで使っている。この言葉は鎌倉の円覚寺でも使われている。北条時宗は元寇で斃れた兵士を敵味方分け隔てなく弔おうと円覚寺を建立したからで、今年になって興亜観音と円覚寺が「怨親平等」をもっと知ってもらうため手を携えることも決まった。

このようなことが続き、ここ10年のあいだ見られないほど興亜観音が活気づいている。

 

1月28日、百人斬り競争で知られる野田毅少尉の遺品が靖国神社遊就館に献納された。軍服、勲章、寄せ書き、刀、軍隊手帳など数十点に及んだ。

 

軍服は、敗戦を迎えたとき着用していたものが中心で、少佐を示す襟章のついた航空兵の軍服や飛行服などである。ほかに航空兵に転科するまえの軍服などもあり、併せると十着ほどになる。勲章は金鵄勲章、旭日章、ビルマ勲章など。寄せ書きは日の丸への寄せ書きがほとんどで、支那事変が始まって北支に出征するときのものや広東攻略戦に向かうときのものなど十点余り。「毅兄へ 祝報國百人斬」と書かれた寄せ書きもある。刀は軍刀拵えと白鞘の二振り。

 

軍服はどれも高価なもので、敗戦直後の食糧事情が厳しいとき物々交換され消えてしまうのが普通だったが、保存されてきた。なかにはクジラのひげで作ったといわれる白い背広もある。野田毅はなかなかのハンサムで、おしゃれでもあったようだ。

 

また、夏用の軍服は、敗戦後も着用していて、昭和22年8月に連行されるとき着ていた。南京で処刑後、同房の日本人が持ち帰ったものである。

 

70年という長い年月が経っても残ったのは実妹のマサさんが丁寧に保管してきたからである。虫干しを欠かさず、防虫剤を入れ、注意を怠らなかった。虚報により処刑され、さらには捕虜斬りとまで貶められ、その兄の気持ちを思うと、残さなければと思ったのだろう。マサさんは86歳という高齢のため保存がおぼつかなくなり、献納することになったのだが「これでホッとしました」と言う。

 

野田少尉の遺品としては、このほか陣中日誌、アルバム、資料なども保管されてきて数十点に及ぶが、これらは防衛省の戦史研究センターに寄贈された。軍事史の研究という観点から遊就館と分けられたのだが、戦史研究センターに寄贈されたものには「ビルマ軍義成訓練 教宣本」「ビルマ独立義勇軍 秘話」「ビルマの太陽」などがあり、日本軍のビルマ独立工作がさらに明らかになるだろう。

 

靖国神社には二振りの刀が献納されたが、敗戦となったとき野田家には四振りがあった。GHQ(占領軍)から提出するよう命令が出されたため、一振りを提出し、三振りが残った。そのうち一振りをもう一人の妹が形見にもらい、野田家を継いだマサさんの手元に二振りが残った。このうち軍刀拵えは戦場に持っていったものである。

 

軍刀といえば、台北にある国軍歴史文物館には野田少尉が百人斬りの際使用した軍刀というものが展示され、南京の虐殺記念館には野田少尉と向井敏明少尉が百人斬りで使用した刀のレプリカが展示されている。マサさんは言う。

 

「兄の軍刀は押収されていません。兄の軍刀が展示されているというのでまったく驚きました」

 

野田少尉の軍刀が遊就館に展示されるなら、百人斬り競争が虚構であることはあらためてはっきりするであろう。

 

南京虐殺と聞いて浮かぶ中国人といえば、李秀英、夏淑琴、朱成山ではなかろうか。前の2

人は被害者だと言って日本の裁判所で訴訟を起こした女性である。3人目の朱成山は南京虐殺祈念館の館長だ。南京虐殺については門外漢だったが、平成4年に党から虐殺祈念館へ派遣され、やがて館長となり、平成27年末まで24年間勤め、南京虐殺というと名前の挙がってきた人物である。

 

朱成山はこれまで13回来日し、講演を繰り返し、館長を退いて一年、今年もやってきて各地で講演をした。最後に12月15日に東京で講演会を行い南京虐殺について語ったが、日本は断乎として否定しなければならないと思わせるものだった。

 

朱成山によれば、南京虐殺を主張する根拠は南京軍事法廷と東京裁判の判決だという。南京軍事法廷は三十四万人という判決を下し、東京裁判は20万以上という判決だったがそこに加えられなかった10万人があるので犠牲者は30万人以上になる。これらから、慎重に言っても30万人の虐殺があったのが南京虐殺である。これら判決は、昭和24年に中華人民共和国が誕生する前、すでに下されていた。こう言う。

 

中華人民共和国は、昭和50年代に入ってから南京虐殺を言い出し、昭和60年に祈念館を造った。南京攻略戦から40年後である。ということは、そのころ何か証拠が見つかったから言い出したと普通なら考えるが、そうではなく戦争裁判を受け継いでいるだけなのである。

 

講演の多くは資料収集について割かれた。たとえば、アメリカのイエール大学に資料があることを発見した、マギー牧師の息子の家に行ってフィルムを見つけた、ドイツのラーベの娘の家で日記を見つけた、南京では被害者探しをして犠牲者として認められた千人余から証言を取った、という話である。

 

言うまでもないことだが、当時南京にいた欧米人は中華民国と何らかの関わりがあった人で、残されているものは意図的なものがほとんど、また半世紀以上も経ってからの証言に価値がないのは言うまでもない。

 

東京の講演のまえ名古屋で講演が行われたが、20万人の南京でなぜ30万人の殺害が起きたのかという質問が会場から上がった。気になったのだろう、東京の講演の最後で朱成山はそれについて触れた。朱成山の説明はこうだ。

 

南京の人口は100万人で、そのうち半分が南京から逃げ、半分の50万人が残った。このほか上海などから何十万という人が逃れてきて、さらに南京には11万の中国軍がいた。南京には多数の人がいたのであり、20万というのは城内の難民区にいた人の数である。

 

こういう説明で、30万人を殺してもまだまだ南京には人がいたと朱成山は言うのである。これは言うまでもなく南京虐殺を主張する日本人が使ってきた元の人口を増やすという手法で、驚くことではないが、朱成山もここに逃げこまなければ他に道はないのである。事実はこうだ。

 

南京の人口は100万人で、そのうちの85万人が城内と、城外でも城壁のそばに住んでいた。この広さは南京市全体の一割強である。残る15万人が郊外に住んでいた。郊外は南京市面積の9割弱を占める。つまり、市民のほとんどは南京城という中心に住んでいて、15万人が点々と住んでいたということになる。

 

南京城にいた85万人のうち65万人ほどは4か月の間に南京を去り、20万ほどが残った。このような状況を見て南京警察庁長官は南京にいる数を20万人といったのである。郊外にいた15万人は、そこから避難した人もいたし、とどまった人もいただろう。

 

朱成山は南京に何十万人もが避難してきたと言うが、そのような記録はなく、まったくの作りごとである。南京が戦場になると知っていたから市民は逃げたので、そういう南京にわざわざ逃げてくる中国人はいない。

 

また中国軍は10万弱だったが、12日夜に撤退命令が出され、それにより大きく4つに分かれる。脱出に成功した一団、城外で日本軍と交戦した一団、城外で捕虜となった一団、難民区に紛れこんだ一団である。中国軍の存在によって南京の数が10万も増えるわけでない。


朱成山は自分の説明を信じているのだろうか。24年も調査研究をしてきてわからないはずはない。事実を承知でこのような詭弁を弄しているのだろう。

 

南京にいた中国人が20万人前後であることは変わらず、名古屋の講演会場で上がった疑問は当然なのである。朱成山が強調する30万人は簡単に崩壊したのである。
 


ミャンマーのセイン・ウィン国防相が9月21日に防衛省を訪れ稲田朋美防衛相と会談した。その席でセイン・ウィン国防相はこう繰り返し語った。

「ビルマ独立義勇軍と日本軍が英国の植民地支配を打ち倒した。日本兵と日本に対し、いつも感謝している」

昭和16年2月、鈴木敬司大佐を長とする南機関が発足した。鈴木大佐のほか9人の機関員からなり、目的はビルマ(現在のミャンマー)を独立させることで、そのため兵器を供与し、幹部要員に軍事訓練をするというものである。さっそく工作が始まり、アウン・サン(アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相の父親)はじめ独立の志士が次々と日本にやってきた。やがて海南島で軍事訓練が始まり、大東亜戦争開始とともに彼らはビルマに入った。そのうちの一人であるネ・ウィンはゲリラ工作の班長を務め、日本軍の快進撃もあって、昭和18年8月、ビルマは独立を果たした。アウン・サンは首相の座に就いた。しかし日本が大東亜戦争に敗れたため、イギリスがビルマに戻ってきて再び独立の戦いが始まる。このとき独立義勇軍は軍艦マーチを奏で、日本式号令で戦い、昭和23年1月にあらためて独立を勝ち取った。


独立の志士の多くはビルマ政府の中枢に入るが、彼らは南機関員が心から独立を願っていたことを知っていた。賠償問題が起きたとき南機関員が両国の橋渡しを務めたのはビルマ政府が彼らを信頼していたからである。昭和56年、大統領となっていたネ・ウィンは鈴木機関長夫人以下7名の日本人を招待し、勲章を贈った。これも南機関員が独立のためどれほど働いてくれたか知っていたからである。そういった評価がその後も変わることなく、今回のセイン・ウィン国防相の発言となったのだろう。

9人の機関員の1人が野田毅大尉である。
野田毅は、陸軍士官学校を卒業すると、南京攻略戦に参加した。やがて南機関の一員としてビルマ独立に奔走する。アウン・サンは面田という日本風の名を持ち、野田毅と面田の交流は「野田日記」(展転社刊)に描かれている。ビルマ独立義勇軍は、鈴木敬司司令官、野田毅参謀長、アウン・サン高級参謀という陣容から成っていたのである。

戦後、野田毅は百人斬り競争をしたとして南京で銃殺刑となった。処刑は戦時宣伝と復讐がからみあったもので、まったくの濡れ衣であった。野田毅が処刑されなければ、昭和59年に鈴木未亡人とともにビルマに招待され、勲章を受けていただろう。

平成13年、濡れ衣を晴らしたいという遺族の気持ちを知った稲田朋美弁護士は法廷に訴えた。野田毅の生家のある鹿児島錦江町に足を運び、野田毅の墓に線香をあげ、錦江町の町民に野田毅が無実であることを訴えた。いわゆる百人斬り訴訟で、稲田弁護士はこの訴訟を一から進めた。結果として法廷で濡れ衣を晴らすことはできなかったが、4年にもわたり尽力した。

あれから10年、稲田弁護士は稲田代議士となり、いまは防衛大臣の地位に就いている。セイン・ウィン国防相が稲田朋美防衛大臣に繰り返した言葉を野田毅はどんな気持ちで聞いているだろうか。


昨年10月4日、NTV系列で「南京事件 兵士たちの遺言」が放映された。これまで南京事件は度々報じられてきたし、78年も前のことなので新たな発見はないだろう。どんな番組が制作されたのかと思いながら見ると、やはり新たな記録などはなく、これまで知られていたことを使って制作しただけのものだった。いってみれば南京事件は事実だと主張するプロパガンダである。

番組の骨格となっているのは証言集『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』で、これは平成8年に刊行され、朝日新聞や週刊金曜日が度々取り上げていた。すでに20年近くも前のことで、そこに新たな発見が加えられているのかといえば何もない。

付属的に使われたのが昭和63年に毎日新聞に発表された写真。こちらは『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』からさらに8年さかのぼる写真であるが、これも新たに加えるものがあったわけでない。ほかに証言と称するものが流されたが、証言者の身分が明らかにされていない。これでは公共の電波の無駄使いではないのか。これが番組を見た人の感想ではなかっただろうか。

それから10ヵ月、この間、「南京事件 兵士たちの遺言」はギャラクシー賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞、メディア・アンビシャス賞、放送人の会を貰ったという。一部の世界では評価されたようだ。そのせいか、番組制作に関わった一人がその過程を一冊の本にまとめ、9月に刊行した。清水潔『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)である。

一読すると、番組を見たときに起きた疑問がたちまち氷解した。彼らは南京事件をよく知らない。もちろんその前提になる軍事知識も十分に持ち合わせてない。その程度の知識で一時間番組を制作したのである。著者によれば、自分自身で取材する調査報道にこだわり、事実に一歩でも近づこうとした、というのだが、知識がないため、これまで明らかになったものをつなぎあわせて作らざるをえなかったのである。

かつてNHKが「ドキュメント太平洋戦争」を放映した。ドキュメントと謳い証言をつなぎあわせた番組だが、証言者の多くが放映を見て怒った。証言はNHKの意図に合わせて編集され、発言趣旨と逆に使われていたのである。そんな番組でも文化庁平成5年度芸術作品賞(テレビドキュメンタリー部門)を貰った。「兵士たちの証言」もいくつか賞を貰っているが、賞を貰ったからといってまともというわけではないのである。

制作者が南京事件の知識を持ち合わせていない例を2つ挙げる。

ひとつは朝日新聞の今井正剛記者の手記「南京城内の大量殺人」を取りあげていること。今井記者の手記は朝日新聞社史でも引用され、南京にいた記者の唯一の貴重な証言とされていたが、手記は剽窃からなっていることが明らかになっている。手記を判断する力がないのは仕方ないとしても、手記が剽窃だという論評も読んだことがないのだ。

もうひとつは南京の人口。10数万人の南京で30万虐殺はできないとの主張に対して、城内に10数万人、周辺人口は100万人としている。だから三十万虐殺はあったと主張したいらしい。

南京市は、城壁に囲まれた部分と、城外の丘陵や田畑の部分とからなる。首都南京市といっても8割以上は丘陵や田畑なのである。それでは、市民の数はどれくらいかといえば100万人で、その80万人以上が城内に住んでいた。日本軍が南京を攻めたとき、城内に住んでいた多くは疎開、城内に残ったのは20万人ほどであった。市民のほとんどは南京市から去っていたのである。

番組ができたとき報道局長以下多人数がチェックしたという。制作担当者だけでなく局の誰も基本知識がなかったのである。

『「南京事件」を調査せよ』は270頁の本だが、その1/4以上は南京事件と関係ない自己主張である。出版社のちらしに「戦争を知らないからこそ書けたルポ」とある。出版社はどの程度の本か知っていたようだ。