ミャンマーのセイン・ウィン国防相が9月21日に防衛省を訪れ稲田朋美防衛相と会談した。その席でセイン・ウィン国防相はこう繰り返し語った。

「ビルマ独立義勇軍と日本軍が英国の植民地支配を打ち倒した。日本兵と日本に対し、いつも感謝している」

昭和16年2月、鈴木敬司大佐を長とする南機関が発足した。鈴木大佐のほか9人の機関員からなり、目的はビルマ(現在のミャンマー)を独立させることで、そのため兵器を供与し、幹部要員に軍事訓練をするというものである。さっそく工作が始まり、アウン・サン(アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相の父親)はじめ独立の志士が次々と日本にやってきた。やがて海南島で軍事訓練が始まり、大東亜戦争開始とともに彼らはビルマに入った。そのうちの一人であるネ・ウィンはゲリラ工作の班長を務め、日本軍の快進撃もあって、昭和18年8月、ビルマは独立を果たした。アウン・サンは首相の座に就いた。しかし日本が大東亜戦争に敗れたため、イギリスがビルマに戻ってきて再び独立の戦いが始まる。このとき独立義勇軍は軍艦マーチを奏で、日本式号令で戦い、昭和23年1月にあらためて独立を勝ち取った。


独立の志士の多くはビルマ政府の中枢に入るが、彼らは南機関員が心から独立を願っていたことを知っていた。賠償問題が起きたとき南機関員が両国の橋渡しを務めたのはビルマ政府が彼らを信頼していたからである。昭和56年、大統領となっていたネ・ウィンは鈴木機関長夫人以下7名の日本人を招待し、勲章を贈った。これも南機関員が独立のためどれほど働いてくれたか知っていたからである。そういった評価がその後も変わることなく、今回のセイン・ウィン国防相の発言となったのだろう。

9人の機関員の1人が野田毅大尉である。
野田毅は、陸軍士官学校を卒業すると、南京攻略戦に参加した。やがて南機関の一員としてビルマ独立に奔走する。アウン・サンは面田という日本風の名を持ち、野田毅と面田の交流は「野田日記」(展転社刊)に描かれている。ビルマ独立義勇軍は、鈴木敬司司令官、野田毅参謀長、アウン・サン高級参謀という陣容から成っていたのである。

戦後、野田毅は百人斬り競争をしたとして南京で銃殺刑となった。処刑は戦時宣伝と復讐がからみあったもので、まったくの濡れ衣であった。野田毅が処刑されなければ、昭和59年に鈴木未亡人とともにビルマに招待され、勲章を受けていただろう。

平成13年、濡れ衣を晴らしたいという遺族の気持ちを知った稲田朋美弁護士は法廷に訴えた。野田毅の生家のある鹿児島錦江町に足を運び、野田毅の墓に線香をあげ、錦江町の町民に野田毅が無実であることを訴えた。いわゆる百人斬り訴訟で、稲田弁護士はこの訴訟を一から進めた。結果として法廷で濡れ衣を晴らすことはできなかったが、4年にもわたり尽力した。

あれから10年、稲田弁護士は稲田代議士となり、いまは防衛大臣の地位に就いている。セイン・ウィン国防相が稲田朋美防衛大臣に繰り返した言葉を野田毅はどんな気持ちで聞いているだろうか。

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昨年10月4日、NTV系列で「南京事件 兵士たちの遺言」が放映された。これまで南京事件は度々報じられてきたし、78年も前のことなので新たな発見はないだろう。どんな番組が制作されたのかと思いながら見ると、やはり新たな記録などはなく、これまで知られていたことを使って制作しただけのものだった。いってみれば南京事件は事実だと主張するプロパガンダである。

番組の骨格となっているのは証言集『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』で、これは平成8年に刊行され、朝日新聞や週刊金曜日が度々取り上げていた。すでに20年近くも前のことで、そこに新たな発見が加えられているのかといえば何もない。

付属的に使われたのが昭和63年に毎日新聞に発表された写真。こちらは『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』からさらに8年さかのぼる写真であるが、これも新たに加えるものがあったわけでない。ほかに証言と称するものが流されたが、証言者の身分が明らかにされていない。これでは公共の電波の無駄使いではないのか。これが番組を見た人の感想ではなかっただろうか。

それから10ヵ月、この間、「南京事件 兵士たちの遺言」はギャラクシー賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞、メディア・アンビシャス賞、放送人の会を貰ったという。一部の世界では評価されたようだ。そのせいか、番組制作に関わった一人がその過程を一冊の本にまとめ、9月に刊行した。清水潔『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)である。

一読すると、番組を見たときに起きた疑問がたちまち氷解した。彼らは南京事件をよく知らない。もちろんその前提になる軍事知識も十分に持ち合わせてない。その程度の知識で一時間番組を制作したのである。著者によれば、自分自身で取材する調査報道にこだわり、事実に一歩でも近づこうとした、というのだが、知識がないため、これまで明らかになったものをつなぎあわせて作らざるをえなかったのである。

かつてNHKが「ドキュメント太平洋戦争」を放映した。ドキュメントと謳い証言をつなぎあわせた番組だが、証言者の多くが放映を見て怒った。証言はNHKの意図に合わせて編集され、発言趣旨と逆に使われていたのである。そんな番組でも文化庁平成5年度芸術作品賞(テレビドキュメンタリー部門)を貰った。「兵士たちの証言」もいくつか賞を貰っているが、賞を貰ったからといってまともというわけではないのである。

制作者が南京事件の知識を持ち合わせていない例を2つ挙げる。

ひとつは朝日新聞の今井正剛記者の手記「南京城内の大量殺人」を取りあげていること。今井記者の手記は朝日新聞社史でも引用され、南京にいた記者の唯一の貴重な証言とされていたが、手記は剽窃からなっていることが明らかになっている。手記を判断する力がないのは仕方ないとしても、手記が剽窃だという論評も読んだことがないのだ。

もうひとつは南京の人口。10数万人の南京で30万虐殺はできないとの主張に対して、城内に10数万人、周辺人口は100万人としている。だから三十万虐殺はあったと主張したいらしい。

南京市は、城壁に囲まれた部分と、城外の丘陵や田畑の部分とからなる。首都南京市といっても8割以上は丘陵や田畑なのである。それでは、市民の数はどれくらいかといえば100万人で、その80万人以上が城内に住んでいた。日本軍が南京を攻めたとき、城内に住んでいた多くは疎開、城内に残ったのは20万人ほどであった。市民のほとんどは南京市から去っていたのである。

番組ができたとき報道局長以下多人数がチェックしたという。制作担当者だけでなく局の誰も基本知識がなかったのである。

『「南京事件」を調査せよ』は270頁の本だが、その1/4以上は南京事件と関係ない自己主張である。出版社のちらしに「戦争を知らないからこそ書けたルポ」とある。出版社はどの程度の本か知っていたようだ。
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いわゆる南京取り立て裁判は、四月二十日、最高裁が上告棄却の判決を下し、強制執行は認められないとする地裁・高裁の判決が確定した。

この裁判は平成十六年十一月二十七日まで遡る。南京事件の犠牲者と称する夏淑琴が松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』のなかの記述が名誉棄損にあたると、著者と出版社の展転社を南京人民法院に訴えて始まった。まもなくして南京人民法院から著者と出版社に出廷するよう訴状が届いたが、日本と中国に相互保証はなく、著者も出版社も応じなかった。平成十八年八月二十三日、南京人民法院は夏淑琴の主張を認め、著者と出版社に千二百万円を支払うように命じた。


それで終わったと思われていたところ、時効も過ぎた平成二十四年、夏淑琴は千二百万円の強制執行を求めて東京地裁に訴えてきた。

千二百万円という公序良俗に反する判決。時効もすでに過ぎている。そもそも日本と中国の間には相互保証がない。それでも訴えてきたということは、日本の裁判所が中国の歓迎する判決を下すことを期待したからだろうか。

平成二十五年九月、松村俊夫が亡くなった。松村俊夫が支援者に送ったメッセージに「この訴訟の実質上の原告は渡辺春己」とあるように、訴訟は夏淑琴の主任弁護人となった渡辺春己が夏淑琴に持ち掛けたもので、夏淑琴は利用されただけである。夏淑琴自身、南京戦当時のことは記憶になく、教えられたにすぎない、と告白しているのである。

平成二十七年三月二十日、判決が下った。日本と中国のあいだに相互保証がないという理由を挙げたまともな判決であった。続く東京高裁も九月三十日に同様な判決を下した。それでも夏淑琴は上告した。

夏淑琴の支援者は、市民から要請ができることになっているといって今年四月七日に最高裁西門に集まった。最高裁に圧力をかけようとしたのだろう。もちろん最高裁でもごく常識的な判断が下った。

万が一、夏淑琴の主張が認められたなら、中国とかかわっている日本の企業に同様なことが起こるだろう。もしそうなれば一大恐慌となるが、マスコミも企業も関心を示すところはなかった。

東京地裁の判決が下った直後の四月、学び社の歴史教科書が検定に合格したが、そこには夏淑琴の証言が掲載されていた。

南京取り立て裁判は解決したが、南京事件は依然として残っている。

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平成に入ると南京事件の研究が進み、いまや南京事件は中華民国の戦時宣伝であると誰でも認めざるをえなくなった。鈴木明、北村稔、東中野修道といった研究家がさまざまな資料を発掘することにより明らかにしていったのだが、そういった一人に古荘光一がいる。月刊誌『WILL』の平成二十四年二月号から二十六年十二月号まで「誰が『南京大虐殺』を捏造したか」を連載し、南京事件に関わった人たちを追うなかで宣教師ジョージ・フィッチに注目、フィッチの動きを分析することによって事件解明に大きく寄与した。

こう書くと、かつて南京事件は認められ、最近になって否定されたと受けとられ、歴史修正主義として排斥される恐れがあるが、南京事件が宣伝であることは、すでにそれが持ち出された東京裁判の法廷で弁護側が主張し、白髪三千丈式の中国古来の宣伝だと指摘していた。そのときは、法廷に提出された証拠やアメリカ宣教師の証言を念頭に置いての発言で、調査を進めて実相を詳らかにする時間も機会もなかったため、指摘にとどまっていただけのことである。

それから二十数年経った昭和四十七年、鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』を発表するなかで戦時宣伝を喚起した。もともと鈴木明は戦時宣伝に関心を持ち、『秘録・謀略宣伝ビラ』を上梓するくらいだから当然なのだが、やがて『新「南京大虐殺」のまぼろし』を発表し、イギリスの新聞記者ティンパーレーが国民党中央宣伝部顧問であることを明らかにする。これをきっかけに、北村稔が董顕光や曾虚白たち中国側の素性を明らかにし、対して東中野修道は南京大学教授ベイツが中華民国政府の顧問であることを調べあげた。そして古荘光一は宣教師フィッチと蔣介石中華民国総統の密接な関係を浮き彫りにし、中華民国の中央宣伝部が欧米人の協力ものとに南京事件を作りあげていったと明らかになったのである。蒋介石と宋美齢夫妻はそろってフィッチ邸を訪れるほどフィッチと親しい間柄で、フィッチは蒋介石から四度も勲章を貰ったという。

『WILL』の連載中は多岐にわたっていたが、単行本化にあたっては読みやすくまとめられ、さまざまな流れが南京事件に集約していく様子がよくわかる。推理小説を読んでいるような気持ちになり、南京事件が戦時宣伝であることを知るには格好の一冊といえるだろう。ちなみにワックから1700円プラス消費税で十二月七日に発売になったばかりである。




ユネスコ「南京」登録に反撃する国際シンポジウム
-中国の狙いと「南京」の真実-

■開催日時 12月13日(日)18時30分開会


■開催場所 東京・牛込箪笥区民ホール(地下鉄大江戸線「牛込神楽坂」1分)

■主催(共催)
「南京の真実国民運動」(代表:渡部昇一)
「慰安婦の真実国民運動」(代表:加瀬英明)
(事務局・連絡先)新しい歴史教科書をつくる会
〒112-0005 東京都文京区水道2-6-3-203
TEL:03-6912-0047/FAX:03-6912-0048

■開催呼びかけ人(50音順) 阿羅健一 大高未貴 岡野俊昭 小名木善行 オルホノド・ダイチン
菅家一比古 黄文雄 櫻井よしこ 佐波優子 すぎやまこういち 鈴木京子 石平 髙池勝彦
高山正之 頭山興助 トニー・マラーノ(テキサス親父) 中山成彬 西村幸祐 百田尚樹
藤岡信勝 藤田裕行 ペマ・ギャルポ 松木國俊 水島総 宮崎正弘 宮脇淳子 茂木弘道
山本優美子 柚原正敬

■参加費 1000円(資料代として)

■プログラム

○第1部 リレー発言

リレー発言 提言者12人(主に上記呼びかけ人を中心に発言)


○第2部 国際シンポジウム
ペマ・ギャルポ(チベット) アジア自由民主連帯協議会会長
オルホノド・ダイチン(南モンゴル) 南モンゴル自由民主運動基金代表
黄 文雄(台湾) 評論家
西村 幸祐(日本) 批評家・ジャーナリスト
藤岡 信勝(日本・司会) 南京の真実国民運動副代表
*( )内は出身国名


十一月十二日、BSフジ「プライムニュース」が南京事件を取りあげた。南京事件はあったのかなかったのか、あったとしたらどの程度の規模だったのか、さらにユネスコの世界遺産登録にどう対処すべきか、という点にしぼって研究家による論争が行われた。出席者は、事件はなかったとする拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏、四万人の虐殺が行われたとする元千葉大学教授秦郁彦氏、十数万の虐殺があったとする明治大学教授の山田朗氏の三人で、午後八時から十時まで二時間続き、一致点が見出せたわけではなかったが、見ごたえのあるものとなった。

全般的に見れば藤岡信勝氏が視聴者の同意を得ただろう。ほかの二人が局部にこだわり、自分の主張に終始したのに対し、藤岡信勝氏は自分の見解を述べながら、二人の見解にできるかぎりの反論をしたからである。また、秦郁彦氏が感情を露わにする場面や、虐殺があったとする秦郁彦氏と山田朗氏がすりよる場面が見られ、それらも二人が確固とした根拠を持っていなかったのではないかという印象を視聴者に与えた。すでに南京事件に関しては数十種の本が刊行され、研究者でなくとも詳細な数字などを把握している。秦郁彦氏と山田朗氏の二人は視聴者を説得しきれなかったのではないか。

二人は決定的な過ちも露呈した。

山田朗氏は、何人が南京に残ったかという司会者の質問に、もともとの人口を百三十五万人とし、八十万人が避難したので六十万人ほどが残ったと答えた。二十万人しかいない南京で三十万人を殺すことができるかという反論に対し、虐殺を主張する人の間で考えられたのが場所や期間を広げる方法で、人口を増やすのもその一つである。六十万人が残ったから三十万を殺害しても数十万人は残るという計算だ。藤岡信勝氏が南京の警察長官は南京に残っていた市民を二十万と見なしていたと発言するに及んで山田氏に対する信用は消し飛んだ。

十一万余を埋葬した崇善堂を証拠として出していることも視聴者の失笑を買っただろう。崇善堂は埋葬など全く行っておらず、その埋葬記録は中国側が捏造していたもので、そういったものにいまだすがっている。

秦郁彦氏にも同様な発言が相次いだ。

秦氏はイギリスの記者テンパーレーが虐殺を本にしていることを事件の証拠として挙げたが、テンパーレーは国民党の資金援助で宣伝につき、中国が設立した通信社の責任者になっていた。宣伝ブローカーだったわけだが、そういう人物やその著書を堂々と挙げていることは、最近の研究をまったく知らないか、知っていてもほかに事件の根拠がなくて挙げざるをえなかったからであろう。

また松井石根軍司令官が部下を集めて叱ったことも事件があった根拠として挙げているが、松井軍司令官は十件か二十件の事件を知って叱ったのであり、それほど軍紀に厳しかった。叱ったことはむしろ事件がなかったことの証拠である。松井軍司令官が叱ったことを挙げて虐殺があったとしたのは東京裁判の検事であったが、秦はそれを改めてなぞっている。

二人は噂のたぐいのものも挙げており、三者三様の見解が示されたものの、事件がなかったことを視聴者は確信したのではないだろうか。

笠原十九司氏など虐殺派といわれてきた人が出席せず、まったく知られていなかった山田朗氏が出席したのは、虐殺論の破綻が目に見えていたからかもしれない。


十月九日(日本の十日未明)、南京事件がユネスコの世界記憶遺産に登録され、以降、日本では様々な動きが起きている。

十三日、菅義偉官房長官はユネスコを批判、馳浩文科相も同様にユネスコを批判した。谷内正太郎国家安全保障局長は来日した楊潔篪国務委員に対して抗議した。自民党からも同様な声が上がり、二階俊博総務会長がユネスコ分担金拠出の削減を検討すべきと述べた。


翌十四日、安倍晋三総理大臣も楊国務委員に中国批判を伝えた。自民党の外交部会など合同会議は、登録は容認できず分担金拠出の停止などを求めるという決議をした。

民間でも同様な動きが起きた。もっとも早いのは幸福の科学で、十三日午前十一時、釈量子党首が登録に抗議する声明を発表した。幸福の科学は、早くからユネスコと接触し、中国の提出した史料を明らかにするとともに、それら史料に対する詳細な反論書をユネスコに提出し、登録されるまでの半年間で四回も中国の申請に抗議してきた。

このほか民間では十四日になると「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」が結成され、議長に上智大学名誉教授の渡辺昇一氏が就いた。また、記憶遺産登録に抗議する集会が十一月三日に中野サンプラザで開かれることも決まった。

この集会は「愛国の市民を結集せよ! 南京大虐殺の世界記憶遺産登録を許すな 日本政府はユネスコ拠出金を拒否せよ」と標榜し、午後二時から中野サンプラザの七階にある研修室8で開かれる。第一部では、明星大学教授の高橋史朗氏が、ユネスコに抗議書を提出したり、最後の国際諮問委員会を傍聴した経験から、登録までの経緯を話し、第二部では南京事件研究家の阿羅健一氏が、南京事件の架空であることと、登録された史料がまったく証拠だてるものになっていないことを話す。

十月二十三日になると、「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」では渡辺昇一氏はじめ五十人の大学教授や研究家が呼びかけ人となり、政府が率先して南京事件がなかったことを広報するとともに、ユネスコへの拠出金を全面的に停止してこれを真相究明の研究と国際的広報活動のため使うよう決議、安倍総理大臣、菅官房長官、岸田外務大臣の連名宛要請状を、自民党の木原実議員を通して萩生田官房副長官に提出した。「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」は国民を巻き込んだ運動を繰り広げる予定で、その一回目として、十一月二十八日午後一時から砂防会館別館で国民大集会を開く。

また、「南京の真実
国民運動」は、南京事件が捏造であることを訴え、ユネスコのまで赴いて国際諮問委員に英文の抗議書を提出してきたが、年内に抗議集会を開くことを決めた。


十月九日、ユネスコは中国が申請していた南京事件の登録を認めた。

ユネスコの世界記憶遺産は、消滅する恐れのある史料を保存しようというもので、同じユネスコの世界遺産や世界文化遺産とは違うが、これまで、イギリスの大憲章や日本の慶長遣欧使節関係資料などが登録されており、登録されるなら歴史事実として世界に認められる。

昭和の終わりまで、中国は南京事件をまったく無視していたが、ここ数年は、既成事実化に力を入れ、外交手段としての価値をより一層高めようとしてきた。かつて南京虐殺記念館を世界文化遺産にしようとして失敗したが、今回はこれまでの姿勢とまったく違っていた。

登録申請したことが明らかになったのは去年の六月で、そのため日本のさまざまな団体や個人がユネスコと接触、抗議するとともに、どのような史料を申請したか探り、「マギーフィルム」「程瑞芳日記」「マッカラムの手紙」などが申請されているとわかった。

マギーフィルムは、当時南京にいたマギー牧師が写したもので、病院の負傷者や城内の様子が写されている。もともと日本軍の残虐さをアピールしようと写されたものだが、写っている負傷者は十人に満たないもので、悲惨さはアピールできただろうが、日本軍の軍紀の乱れや虐殺が記録されたものではない。

程瑞芳日記は、金陵女子文理学院の舎監を務めていた程瑞芳の昭和十二年十二月の日記で、難民収容所となった金陵女子文理学院の実態が書かれている。日記によると、強姦と掠奪が九件起きているが、若い女性を中心に一万人ほど収容していた学院でこの件数というのは特記すべきことではない。その強姦にしても、金陵女子文理学院では中国軍の大佐を頭にした一段が日本軍の仕業に見せかけて強姦を繰り返していたし、掠奪は鶏などの食糧やお金といったもので、程瑞芳は一件の殺人も見ていない。

マッカラムは南京にあった病院で働いていた宣教師で、申請されたのは妻に宛てた手紙である。程瑞芳日記と同じように、日本軍の不規律が記載され、南京が大混乱に陥ったように書かれている。しかしそれらは抽象的な記述で、マッカラム自身が見た日本兵の事件は、強姦二件、連行・掠奪二件、掠奪、放火、破壊それぞれ一件である。

このようなことから、三つの史料は事件を証拠だてるものではない。中国が言うように三十万の虐殺があったなら、金陵女子文理学院にいた一万人は全員殺害されてなければならないはずだからである。またそのほかの、たとえば「谷中将軍事裁判記録」は、戦後になって行われた軍事裁判で、史料などと言えないものである。

早くからユネスコに接触していた「幸福の科学」は反論書を提出し、遅れて「『南京の真実』国民運動」も国際諮問委員会の十四人に反論資料を配った。

今年の初夏には、申請された九十六件のうち五から七件に対して不備があり、南京事件もそのうちの一つであるとユネスコが判断したことが明らかになり、申請は認められないだろうという見方が広まった。

しかし、中国の取り組み方は半端でない。登録の最終決定者である事務局長に対して習近平はすでに会っている。その事務局長に答申する国際諮問委員会の十四名にも中国は猛烈な攻勢をかけている。史料に不備があると連絡を受けると新たな史料を提出する。国を挙げての取り組み方で、決定ひと月前になると、国際諮問委員会は仮登録との決定を下した。

それに対して、これまでユネスコに働きかけていた個人や団体が座視していたわけでない。「『南京の真実』国民運動」は外務省がただちに行動を起こすよう要請した。自民党の外交部会も外務省に早急の対応を求めた。外務省の言い分によると、国際諮問委員会は説明を嫌っているという。しかし、十四人は歴史の専門家でなく、そういう人に対しては提出された史料が保存に価しないことを詳しく説明すべきであろう。

日本と中国の姿勢を比べると格段の違いがあり、恐れていた通り認められてしまった。こうなったのには、ひとえにこれまでの南京事件に対する外務省の態度と、申請されたとわかって以来の外
務省の姿勢にあるだろう。

昭和十二年十一月から十二月にかけ「毎日新聞」に百人斬り競争が報道され話題を呼んだ。昭和四十七年になると、鈴木明が「『南京大虐殺』のまぼろし」で取りあげ、再び大きい話題となった。平成十年には遺族が法廷に訴えて三度話題となった。このように百人斬り競争は長い間世間の耳目を集めたが、戦中と戦後では話題の中身が違っている。戦中は武勇伝として話題になったのだが、戦後は実際に百人斬り競争はあったのか話題となり、そのときは激しい論争を巻きおこした。戦後の論争史のなかでこれほど長く話題となったものは類を見ず、いまだもって続いている。

その百人斬り競争について、これまで発表されたものがまとめられ、このほど刊行された。渡辺晋太郎著「関西大学図書館資料紹介」(発行所 株式会社ユニウス 大阪市淀川区木川東4-17-31 2315円と消費税)で、著者は関西大学の図書館に勤める職員である。「関西大学図書館資料紹介」とあるように、もともとは関西大学の蔵書のなかから二十五点を選び、その梗概を関西大学生活協同組合発行の「書評」に紹介し、一冊の本にまとめたものである。その最後に「番外編」として、書き下ろし「世紀の遺書」が加えられたが、それこそが百人斬り競争の集大成なのである。

昭和十二年の新聞記事から始まって、昭和四十六年に話題となったときのそれぞれの主張、平成十年の訴訟での対立点まで、重要なものはすべて収められている。半世紀以上もの間論争になっただけにその資料は膨大な量にのぼるが、著者はそれらをたんねんに集め、収めるべきものとそうでないものに分け、解説をつけた。それだけに七百五十頁にも達し、この本の85パーセントを占めている。「関西大学図書館資料紹介」というより「百人斬り競争全資料」というほうが適切である。

手に取ってみると、資料を収集したエネルギーにも感心するが、取捨選択も適切である。資料中心であるが、読み物のように読めるのは、取捨選択が的を射て、付された解説が適切だからであろう。

十年前に主任弁護士としてこの訴訟と関わった稲田朋美自民党政調会長は、昨年、百人斬り競争について「朝日にはぜひもう一度再精査をお願いしたい」と述べている。

遺族のあいだでは、最近、「法曹界がまともになりつつある。もう一度、訴訟に持っていって判断を求めたい」という声があがっている。

長い、激しい論争からいえば、このような著述が出てもおかしくはなく、訴訟から十年、価値ある本が刊行されたというべきであろう。


毎年五月十八日は、松井石根大将をはじめ大東亜戦争の戦没者を慰霊するための法要が興亜観音で行われ、興亜観音にとりもっとも重要な日である。この日、相模湾一帯は晴れ、蒸し暑い日であったが、伊豆山の中腹は爽やかな風が吹いていた。午後一時、住職の伊丹妙浄さんの読経で法要は始まった。二十人近くが参列し、全員が焼香、四十分ほどで法要は滞りなく終わった。


興亜観音は、昨年秋、建立以来はじめてという大雨に見舞われている。鉄砲水が参道を横断、コンクリート道路が浮き上がり、何か所かで参道が遮断された。杉の木が何本も倒れ、麓の国道は水で溢れかえった。急斜面に建つ庫裏も床下浸水したほどだったが、幸いなことに露仏の興亜観音やお堂はなにごともなかった。

お堂や休憩所には名画が掲げられている。昨年、平凡社から「別冊太陽 画家と戦争」が刊行され、興亜観音に掲げられている絵画が紹介された。本堂には堂本印象の龍、宮本三郎の中国人の生活、西村真琴のアジア女性の絵画が掲げられ、休憩所には栗原信の黄河治水、吉田初三郎の南京城鳥瞰図が掲げられている。当時の代表的な画家が描いたもので、「別冊太陽 画家と戦争」によりこれら絵画が改めて注目されるとともに、松井大将がいかに中国を思っていたかも示しているが、それら絵画はすべて無事だった。例大祭までには参道の復旧も終わっていた。

法要が終わり、住職の伊丹妙浄さんがこんな話をした。新年早々、三十代の男性が参拝に来た。聞くと、靖国神社にお参りに行ったところ、かつての軍人から興亜観音のことを聞き、それではと新幹線に乗って参拝に来たという。

これに限らず、若い人の参拝がよく見られるので楽しみだと妙浄さんは言う。かつて参拝する人は、松井大将の部下や南京攻略戦に参加した将兵など直接関わりのある人がほとんどだったのである。

この話をきっかけに、参拝者が思い思いに話をはじめた。

沼津から来た五十代の男性は、沼津にある日蓮宗の「妙覚寺」に興亜観音と刻まれた石碑が建っており、字体が松井石根大将のものと似ていることから、松井大将を崇拝している檀家の一人が建てたのだろう、という話をした。

同様な石碑は全国に何か所かあると妙浄さんがそれに答え、アジアの平和を願った松井大将の考えに共鳴した人が全国にいたことがわかる。

東京から参列した人は、興亜観音を知ってまだ数年だが、年に三度はお参りするという。

境内には猫が多いですね、という声が上がったが、この山に猫を捨てる人があり、興亜観音ではそれを飼育しているうちに増えてしまったという。松井大将は犬をかわいがったが、いまでは「猫寺」と地元の人は言う。

興亜観音の今年後半の行事は八月十五日と十二月二十三日に行われる慰霊法要で、それぞれ午後一時から行われる。誰でも参拝できる。