醒ヶ井 ヤマトタケル ナンカナンカ 西行水 | ナンカナンカ

ナンカナンカ

ナンカナンカのフィクション。
実在しない虚構のお話。
なんかなんかのうそつき話。

2009年01月11日日曜 醒ヶ井 ヤマトタケル ナンカナンカ 西行水(旧12月16日、丙辰)


なんかなんか、伊吹山の毒気にやられたヤマトタケルは、西行水の泡だ。


醒ヶ井水の宿駅に車を止めて、中山道を散策。

http://ameblo.jp/nankananka70/entry-10211619871.html

http://ameblo.jp/nankananka70/entry-10211869309.html

「西行水」に行く。西行が立ち寄ってこの泉の水を飲んだところから、この泉を「西行水」というらしい。そばに、「泡子塚」がある。西行が東遊したとき、この泉の茶店の娘が西行に恋をした。その娘は、西行が飲み残した茶の泡を飲んだ。すると、不思議にも懐妊して、男の子を生んだ。その後、西行がこの泉に戻ってきた。一部始終をこの娘から聞いた西行は、児を熟視して、「今一滴の泡変じてこれ児となる。もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、「水上は清き流れの醒井に浮世の垢をすすぎてやみん」と詠むと、その子は消えて泡に戻ったという伝説が残っているらしい。そして、このあたりの小字名を、「児醒井」というらしい。そんなことが、案内板に書いてある。

あたりに茶店はない。茶店の娘が、21歳女優に恋することはない。冷たい風が、頬をなでる。塚の隣に「水琴窟」があった。21最女優は、「西行水」を柄杓で汲んで流した。「キン」と高い音がかすかに鳴った。

地蔵川に沿う道は整備されている。が、誰も通らない。寂しい中山道。

「十王水」「御葉附銀杏」「寺ヶ谷寺院跡」「源海寺本堂」などなどをめぐり、「加茂神社」へ。「日本武尊の像」が建っている。ここは「居醒の清水」。日本武尊が伊吹山の毒気に当たり、苦しめられが、この清水を飲んで醒めたとかいう有名な水だ。


《胆吹(いぶき)山に至るに、山の神、大蛇に化(な)りて道に当れり。爰に日本武尊、主神の蛇と化れるを知らずして謂はく、「是の大蛇は、必に荒ぶる神の使ならむ。既に主神を殺すこと得てば、其の使者は豈求むるに足らむや」とのたまふ。因りて、蛇を跨えて猶行でます。時に山の神、雲を興こして氷を零(ふ)らしむ。峯霧り谷〓(くら)くして、復行くべき路無し。乃ち〓〓(さまよ)ひて其の跋渉(ふ)まん所を知えず。然るに霧を凌ぎて強に行く。方に僅に出づること得つ。猶失意せること酔へるが如し。因りて山の下の泉の側に居して、乃ち其の水を飲して醒めぬ。故、其の泉を号けて、居醒泉と曰ふ。》(『日本書紀(二)』岩波文庫、102頁)


そういえば、『図書』2009年2月号に、三浦佑之「まぼろしの上総国風土記」が掲載されていた。「常陸国風土記」で語られるヤマトタケルは、「記紀」とはまったく別のイメージであるらしい。


《常陸国風土記で語られているのは、王者として地方を巡行する天皇であり、征服し土地の名付けをする天皇である。そして、そこに描かれている倭武天皇には死を予感させる陰もなく、他の諸国風土記に登場する歴代天皇たちと変わらない。そこから考えると、八世紀初め、常陸の国で伝えられていたのは、古事記や日本書紀に語られる以前の、ヤマトの王者・倭武天皇であった。それが、王(天皇)から悲劇の御子へとヤマトタケル像が急旋回することで、歴代天皇の継承を含む歴史そのものが、中央で大きく変容していったのではないかというのが、常陸国風土記に描かれた倭武天皇に対する私の認識である(三浦『古事記のひみつ』吉川弘文館、2007年)》(『図書』2009年2月号、33頁)


三浦佑之は、遺っていない「上総国風土記」を嘆きつつ、千葉県富津(ふっつ)市の吾妻神社に言及している。走水(浦賀水道)でのオトタチバナヒメの入水伝承。「記紀」成立以前の房総半島に残る伝承。幻の「上総国風土記」。

そうだ。富津市に行ってみよう。房総半島をのんびりと散策したことはない。

21歳女優が房総半島を旅するのは、2月18日のことだろう。


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