sidの下書き

タイトルの由来=自分の思想はあくまで行動で示すべきだと思っています。ここでの文章は,あくまでそのための下書きに過ぎない,という訳で「下書き」としました。


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怒ることに対する迷い

弁護士になると決まったとき,一つだけ思ったことがある。


それは,「これからは,間違ったことに対して素直に怒ろう。」ということだった。


世の中,理不尽なことは沢山ある。不当な差別,年功序列,派閥,同僚の点数稼ぎ。

でも,多くの場合,その理不尽さに目をつぶって生きていかなければならない。みんなそうやって我慢して生きているのに一人だけ我儘言って仕事サボるわけにもいかないから。

でも,そういう理不尽に文句を言うことでお金を稼ぐことができる唯一の職業がある。

それが弁護士というものだ。


オレが就職する事務所の先輩弁護士は,誇らしげにそう語っていた。

研修中に出会った弁護士たちの中にもそういった人種は少なからずいて,彼らを見ながら自分も彼らのようになりたいと思ったものだった。


青いと言う人は言え。餓鬼と言う人は言え。


言うべき事も言えないで,いつもスマイリーな人間はかえって信用できないと思う。

研修先では,歳頭と言うこともありある種のリーダーシップを求められてきた。怒るべきときは怒ってきたし,そのこと自体は評価されてきたと思う。




ただ,問題は,気に入らないもの全てに対して怒ることは果たして自分にとって有益なのか,ということ。


怒ることは,自分の身を削ることであったりもする。怒って人とやりあった後は,正直,毎回自己嫌悪に陥る。


感情を抑えられない人間と思われているのではないか。

周りの人間から浮いているのではないか。

一人だけ偉そうと思われているのではないか。


怒るととても不安になる。

他人の顔色を伺って,自分の正当性を確かめたくなる。

そういう自分が嫌になる。




些細なことまで怒る必要はないのだろうか。

怒ることによって何らかの利益が見込まれる場合にだけ怒ればよいのか。


でも,そういった使い分けも,自分の信念に対して誠実でないような気がして,躊躇してしまう。


答えは出ない。今日は出ないままに放置して,悩みを述べるだけに留めることとする。

不幸くらべ

自死遺族同士で「分かち合いの会」というものをすることがあります。


ボランティア団体が主催することが多いです。最近は行政が関与することも多いですね。

自分の大切な人を喪った際に体験したこと,感じたことを話し合います。


自分はその時何歳だったのか,遺体を直接見たのか,ご近所や親戚からは何と言われたか・・・。

そういった体験を各自が話して,お互いの気持ちを追体験する。普通他人には言えないことでも,同じ自死遺族なら分かり合えることも多い。

私も体験したことがありますが,非常に一体感が生まれるものです。

そしてなにより,自分ひとりで抱え込んできた感情を受け止めてくれる人が存在する,その事自体が感動的であったりもします。




ただ,時として,遺族同士でトラブルが生じることもあります。


一つは,拒絶。

「私の体験は特別なものなんだから,話したところでどうせ分かってくれないでしょ!」

そう言って他者との共感を拒む人もいる。


そして,もう一つが,不幸比べ。

「あなたの体験なんて大したことないじゃない。私なんか夫が飛び込むところ,見たんだから!」

そう言って他者の体験を不当に軽く見ようとする人もいる。


ボランティアの場合,もともと善意の団体であるだけに,こういった不協和音には殊の外弱いのです。

こうした感情的対立が原因で解散してしまうケースも珍しくはないと思います。


そしてなにより,こういった対立を見ていると「そんな下らないことで・・・」とやりきれない気持ちになるものです。




よくよく考えてみると,これは自死遺族に限った問題ではないのかもしれません。


「どうせお前なんかにオレの苦しみが分かるか!」

「勝手に仲間面するなよ!」

「勝手に理解したふりするな!」


差し伸べた手が,そのようなセリフとともに振り払われることは,それほど珍しくはない。

ある知り合いは,目に障害がある人に親切にしようとして,邪険に拒まれた。

ある知り合いは,統合失調症を理解しようとして,拒絶された。



たしかに,表面的には善意を装いつつ,本質的には自己満足のためだけに差し出される手もあるでしょう。

かつて,「五体不満足」の乙武氏はマスコミによって「こんな可哀想な人でもけなげに生きてます」的に祭り上げられた。

そもそも哀れみの眼差とは,上から目線での行為でもあるように思います。

自分が同じ立場だったらどれほどの屈辱か・・・。

かくいう私自身も,あまりに軽薄な善意の手には,辟易することもあります。




しかし,差し伸べられる全ての手が,そういった「下心のある手」とは限らないはずです。

全ての手を振り払うのはあまりに非生産的な気もするのです。


全てを拒絶する必要は無い。


「自分の全てを理解して欲しい」

そのこと自体,本当は甘えなのだと思います。

酷な言い方ではあるけれど,自戒の意味も込めて・・・。


そもそも,他人が自分の全てを理解してくれることなどない。

理解してくれないことを前提に,それでも,理解しようと努力してくれる人には感謝の気持ちを持つべきなのでしょう。手を振り払われた人間がどれだけ傷つくか,思いを馳せることができたら理想的だと思います。


他方で,手を差し伸べる側としても,「自分は相手の全てを理解することなどできない」ということを肝に銘じておくべきでしょう。

そして,万が一振り払われたとしても,想像してみてください。どういった経緯から,彼が手を振り払わずにはいられない気持ちを有するに至ったのかを。




少なくとも私はこのように考えています。

想像力の根本的な欠如を前提に,それでも想像力を働かせてなんとか理解しようとする。

その姿勢こそが,この社会をより生きやすい社会としていくうえで,大切なような気がします・・・。

原点

昔,ミクシィ上で以下のような記事を書いたことがありました。


今になって読み返してみると,少し大げさでもあり面映くもあります。

ただ,自分が当時思っていたことが,とてもストレートに出ている気もします。

やはりここが原点なのかなとも思います。

そんな訳で,軽く自己紹介を兼ねて,かつての文章を転載してみたいと思います。

若気の至りを割り引いてお読みください。


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世の中には,自分と同じ悩みを抱えて生きてきた人が,意外と多い気がする。
いつかそういう人に会ったとき,「悩まなくていいんだよ」と言ってあげたい。
そのために,今日考えたことを残しておきたい。


今から2年ほど前になるだろうか。夏の終わり頃,オレは自分の母親を亡くした。


死因は自殺。
朝起きると,母親は祖母の仏壇の前で,緋色の着物の帯紐で

首を吊っていた
あれ以来,緋色は,一生見たくない色になった。



自分の親が死んだら,普通の人はどう思うのだろう?
悲しくて堪らなくなるのだろうか・・・。


オレは全く涙が出なかった。その事を思うと,今でも罪悪感を覚える。
オレはただ,彼女の「迷走」がようやく終わったことにホッとして,開放感すら覚えていた。



母は心を病んでいた。
祖母も心を病んで通院していた。
そして,実は父も心を病んでいた。

オレはそんな家庭環境で育った。

みんな,自分の「心の闇」と闘うのに,必死だったのだろう。
誕生日プレゼントなど,もらったことが無い。
オレが親の誕生日を祝ったことも無かった。
小さい頃は旅行にも一緒に行ったが,中学生くらいからは,一緒に晩御飯を食べることすら,少なくなった。

親から貰ったものは,あまりに少なかった。
生きていくために必要な知識は,友達と書物から学んだ。
だから,親に感謝の念を抱いたことは無かった。


母親は,母親としての役割を完璧にこなすことのみに執着し,その視線は,子供を通り越して,何か別のものを見ていたように思う。
完璧な母親を演じることによって,辛うじて彼女は精神の安定を保っていた。今にして思えばそんな気がする。
そんな彼女に,人生について深く考える余裕などなく,その考えは非常に偏っていた。


母の死後,父親と,過去を振り返って話した事がある。


母親はオレを,父親以上の高い学歴を持つ人間に育てることに,異常なまでの情熱を持っていた。
母親は酒を飲みながら,自分の人生がいかに惨めであったかを語り,オレは小学生の頃から,毎晩毎晩,同じ話に夜中まで付き合わされた。
そして,オレが父親と会話をすることを嫌って,常に母親と父親,母親とオレ,という,1対1の会話しか許さなかった。


父親は父親で,オレを子供の頃からライバル視して,酔ってときに暴言を吐いた。


子供の頃から,それが当たり前だと思って生きてきたので,自分の家庭が他と比べてかなり変わっているということに,20代後半になるまで,気付かないでいた



親に,感謝の念を持てないことが,長年の悩みだった。



母親からも,「お前は親への感謝の気持ちが薄い!」と,よく責められた。
「この親の子として生まれてしまった者の義務」と自分に言い聞かせながら,親の言うことを,嫌々ながらよく聞いてきた。
その反面,
「子としての義務は十分果たしているではないか,これ以上に一体何を要求するつもりなんだ!」
という想いは,常に消えなかった。


母親にとって,家族以外の人間は,全て,自分に危害を及ぼすかも知れない,危険な敵だった。

隣の家の住民と喧嘩をするのは,日常茶飯事。
近所の子供の声がうるさいと,「騒音おばさん」まがいのことまでやろうとして,そのときはオレが止めた。
オレの友人や彼女にも露骨に意地悪をして,彼らを苦しめ,それはオレをも苦しめた。
今にして思えば,
うつ病からくる強迫観念や被害妄想に,彼女の心は常に侵されていたのかも知れない。


それでもオレは,彼女が自殺するまで,遂に「うつ病」だとは見抜けなかった。

子供の頃からの「刷り込み」とは,恐ろしい。
彼女が正常な人間だと,最後まで信じて疑わないでいた。

ただ,正常な人間だと思えば思うほど,彼女の言動は理解しがたく,オレの心の中には,20数年かけて少しずつ,鈍い怒りが沈殿していった。



そして,彼女が自殺した後,オレの人生は劇的に変化した。

その翌年には,とうとう試験にも合格したし,プライベートも途端に充実し始めた。
理由は分からないが,母親の死をきっかけに,凍っていた全ての歯車が,勢いよく回転し始めた。


我々の家族関係は,やはり,「限界」に来ていたのだと思う。
崩壊して初めて分かった。
そして,もし仮に,いまだ崩壊していなかったら…と考えると,今でも恐ろしい。


あえて言おう。
「親に感謝する必要は,時として無い。」

一人歩きしていってしまいそうな,危険な言葉ではあるけれど。
この言葉の悲惨さが,本当に分かる人だけに使って欲しい言葉。


いつか,同じような境遇の子供に会ったら,アドバイスしてあげたい。

「君の人生は君だけのものだ。自由に生きなさい。」
そう言って,背中を押してあげたい。開放してあげたい。


いつか,そういう場面に出会うこともあるだろう。その時には,かならず・・・。