葬送の受動態 | 名無しの唄

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遺骨をダイヤに? 手元供養が人気
大切な人の遺骨を身近に置き、いつでも好きな時に故人を偲ぶ。そんな新しい供養の方法「手元供養」が注目さ..........≪続きを読む≫ 重松清『その日のまえに』
読んだのは大学一年の4月もはじめ、引越し直後の下宿で、だった。
第一志望の難関大学に現役で合格し、なんとなく念願だった一人暮らしを初めて、何かを掴んだ気になっていだ自分が、わけがわからないぐらいの涙を流したのをはっきりと覚えている。
<忘れてもいいよ>
その一節が今も忘れられない。

自分が死というものについてあれこれと考える癖があったのは中学生の頃だ。
死とは、すなわち無とは、そのとき自分の意識は、と考えては恐れおののいていた時期があった。
時を同じくして、母がたの祖母がこの世を去った。
火葬場で祖母の身体を見送る時、祖父がその額に手を当てて行った。
「おつかれさん」
好きなところばかりではない祖父に、強烈に心を動かされた瞬間だった。

昨年5月、東北は岩手県大槌の避難所へ、ボランティア活動で行った。
避難所運営の手伝いをさせていただく中で、ひとつ、行方不明者捜索願の張り紙を整理する仕事に携わったことがある。
3月11日から数日間の日付を刻み、自分の生存と相手からの連絡待ちの旨を、有り合わせの紙の切れ端に記して避難所の入口に貼り付けられていた。
避難所代表者の方は言う。
-もう今このような貼られ方のままのものは、生存の可能性は正直希薄だ。生々しいから記録だけして整理してくれ。
とてつもない無力感に苛まれたのをはっきりと覚えている。


自分は死んだことがない。
だから、死ぬときにどう言って欲しいか、あるいは死なない人たちにどうあって欲しいか、正直さっぱりわからない。
考えてもわからないし、考えられたとしても仕方のないことだろうとは思ってしまっていたりする一方で、機に触れ折に触れ頭を擡げてしょうがない話なんだ。

感動的に仕上げるでもなく、消極的に躱すでもなく、命を失ったその人にどうしたいのか。
どうするべきなのか。

送り火の去った大文字を眺めながら、生の一時を費やしている。