劇団スカッシュ youtube×舞台企画「ラブミーテンダリー」
出演映画
「女の穴」
監督:吉田浩太 原作:ふみふみこ (主演:鈴木幸子役)
「サンブンノイチ」
監督:品川ヒロシ
「マイ・ツイート・メモリー」
監督:松本卓也 (矢野役)
出演ドラマ
TX「アオイホノオ」 脚本・監督:福田雄一 原作:島本和彦 (女子大生役)
たまにいただく質問
たまにいただく質問に、個人的にお答えすることはなかったのですが、ふと自分の経歴を振り返って面白くなったので、この場でお答えしようかと思います。
どうやって〜しましたか。
どうしたら〜になれますか。
等の質問をたまーにいただきます。
その度に思うことは、私のレベルでの答えでいいのならば、やること、しかないと思っています。
大成したい、一流ブランドにしたい、とかもっと大きな思いをお持ちの方はもしかしたら、適切な道筋があるのかもしれません。
ですが、それでも根本は同じな気がします。
一歩踏み出すことに、躊躇していては、なにも変わらない。
たまたま、私は踏み出すことそれほど不安を抱くタイプではなかったのだと思います。
上京する時も、思ってたタイミングより早いお話でしたが、二つ返事で決めました。
もちろん、友達もいなければ、親戚もいませんでした。学校に通う予定もなかったので、身を置くコミュニティは0でしたが、そこを深く考えることもなかったように思います。
お洋服を始める時も、とにかくまずは仕事ということではなく、始めてみました。
私は夢中になることが欲しかったので、夢中になるかどうかを試したかったからです。
結果、これはやっていきたいと思い、ブランドとして仕事にする、と決めました。
やっただけ。だと思います。
ただ、ひとつ私は私の出来ること、とやりたいことに違いがなかったから、出来たというのもあるかもしれません。
もし私が、大きなデパートにお店を出したい、だとか、自分で全て作ることはしたくないだとか、受注生産ではなくやりたいだとか、思っていたら、始めるまで相当な時間がかかったかもしれません。
幸い、私は小さなブランドを、自分の手でやりたい。
(買ってくれた方からして、私のために作られた一枚、というものがあってもいいのではないか、と思っていたから)
と思っていました、だからこそ、早く始められたのです。
でも逆を言えば、やりたいことに対して、自分の理想の形態がさほどないのであれば、今の自分に出来ることで考えてみるのもいいのかもしれませんね。
好きな映画
なんとなく気が向いて
特別に大好きな映画を観ている。
温かく優しい映画はよく何度も観るけれど
大好きだけど重かったり、心に触れるものほどなかなか気軽には観れなくて、久しぶりになったものもある。
数年前から自分の精神世界は
よしもとばななさんの小説と
ものすごくうるさくてありえないほど近いという映画と
渇きという映画の要素で成り立っていると言えると思うと言っていた。
3つとも違う。それらを合わせて割ったものではなく、それらそれぞれを持っているという感覚に近いかもしれない。
渇きは、映画を観ていて台詞に心を奪われ翌日原作を読み切った。個人的な好みで言えば原作の方が好きだ。
そもそも私は説明が大好きだ。するのもされるのもすきだ。噛み砕いたり、噛み砕いてもらったりして伝わった先で、理解したいのだと思う。
余韻や空白を好む気持ちと同じ量で、それらを正確に把握したいという気持ちがある。
だから小説の方がすきだったのだろうなと思う。
けれど、要素としてのものは映像の方が強く、キャッチコピーにもあったように劇薬。
理解不能でめちゃくちゃで、惹かれていく感覚が映画の方がダイレクトで、私は夢中になったのだろう。
そもそも原作と映画等のものは別の作品だという感覚も強い。
私は陶酔に近い恋愛の表現がすきなのだと思う。振り返れば、好きな曲の歌詞なんかもそうだ。
だからこそ、台詞に心を奪われたし、それらが表現するかなこがたまらない気持ちになるのだろう。
久しぶりに文字にしたいと思ったのは、渇きの話ではないで、このままではあまりにも長く書いてしまいそうなので、渇きの話題はここで終わり。
ものすごくうるさくてありえないほど近い
この映画がすきだ。
もともとの印象としては、オスカーが心の激しさをそのまま表現しているという部分が強かった。
それはきっと、その時の私がそうであれたらいいのにと思っていたのだろうと思う。
ワークショップなどに通う前、お芝居をする機会はすくなかった。私は私がいつも選択する感情表現以外で自分の内面を表現することがなかった。
もちろん、怒ったことも泣いたこともある。
ただ、激しく感情のままになったことは無いと思う。
今思えば自分のみに没頭する、我を忘れる、感情に身を任せることをしたことがない。
それでもそれは、そうなってしまうほど強く何かを抱えたことがないわけではない。
ただ、選択肢になかった。
ヒステリックに怒ることも、自分以外の何かに当たることも、怒鳴ったりすることも。
それはきっと自分はしっかりしていて、歳の割には大人っぽくて、ちゃんとしてるという勝手なイメージを壊せなかったからだと思う。
人からの評価やイメージを自分のアイデンティティにしていた。
逆を言えば、人から言われているそれらから外れたら自分の価値は、固有性は無くなるのではないかと怖れていた。固執していた。
だから選択肢になかった。
それでも嵐のような感情を何かぶつけてしまいたかったり、理解してもらえない苦しさを理解して欲しくて、叫んでしまいたい時もあったのだ。
それでもそれらの気持ちはいつも行動の選択肢には出てこず、私はその想いをゴミ箱に捨てていた。
オードリーが彼の性格故に、自制しても仕切れず、癇癪を起こす時、私は何かが軽くなったように感じたのだ。
きっと物語を通して感情移入していた私は、彼の行動によってゴミ箱の中身を消化できたのだろう。
少しだけ脱線するが、いつかの私は考えて考えた結果これが私のお芝居がしたい理由だと思った時がある。
と、同時に、私自身もゴミ箱の中身を消化できるのではないか、と思っていた。
私の中の幼さや心の中のこどもがオードリーにひどく共感して、私はこれを特別な映画だと思った。
そして久しぶりにみかえしてみて、前途書いたことがなくなったわけではないけれど、とても小さくなっていることに気づいた。
数年が経ち、環境が変わり、私の心は穏やかになったのかもしれない。それかもしくはオードリーのみに感情移入する時期ではなかったのかもしれない。
年齢を重ねて、私の中に母性のようなものや、小難しくなっていってしまう大人サイドのことを少しは分かるようになってきたからだろうか、出てくる大人たちへの感情の大きさがあった。
とにかく、細かくは書かないが、最高に大好きだなと思った。
終わり近くが特に大好きだ。
この映画には、私のつぼが詰まってるんだ、と改めて知った。
オードリーのキャラクター
親子や家族のあり方
人の人生というもの
全部教えてくれるわけじゃないけれど、表情が伝えてくれる
純粋さとは、なにかを溶かしたり、開けたりするのかもしれない。
やらなければならないこと、が増えれば増えるほど、シンプルに純粋に、素直にいることはどんどん難しいことのようになってくる。
愛してくれるものだけに囲まれて生きていくことはなかなかできないから。
だからこそ、大人になればなるほど、問題は複雑になって絡まってしまって、解けなくなってしまうのかもしれないといつも思う。
これからもう一つの特別に好きな映画を観ようと思う。
それはまさに、解けなくなった、分からなくった大人の話。
思考、心
久しぶりに文を書こうと思ったのは、考えたい、考え続けていきたいと思ったからだ。
人のことを
どこまでも自分は足りてないと思った上で、思考を巡らせていきたい、人というものに対して。
彼の死が自らの意思によるものだったとしたら、彼はどうして死を選んだのだろう。
耐えきれなかったのだろうか
それとも、何かのゴールにたどり着いたのだろうか
彼の風変わりさや、彼の物言いや思考は、人との間に壁をつくる。
現代ならもう少し救われただろうか
とふと思った。
様々なものに名前が付いている現代なら…
とも思ったが、枠にはめられる不自由さゆえの苦悩と、わかられない苦悩を天秤にかけても仕方がないか、というところに至った。
私のみた物語の中のどこまでが、本物の彼と同じだったのだろう。
人が変われば記憶も変わる、その中で
もういない彼の心をどこまでみせてもらったのだろうか。
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