こにちは。
だんだん寒くなってきましたねさむぅ


いちおう、冷え性のブログ村のランキングにも参加させてもらっているのですが、これまでとくに冷えにかんする記事をかいてなかったですね。申し訳ないでござる。


最近の気温は、あつがりの方にとってはやっと涼しくなったねってくらいなのでしょうね。
(うちの夫はそうくま
でも、冷え性の人たちにとっては、冬キターーーッ!って感じなのです。
寒さへの防衛本能がニョキニョキっと目覚めてまいります。


ななみんは手術の後遺症で顔の左半分に顔面麻痺の症状があります。
顔面麻痺だと寒さがどれだけツライものかは、ほかにも顔面麻痺の方のブログを読むとよくわかります。

そもそも麻痺で顔の筋肉が動かず、血行不良になっている顔に寒風が吹きつけることで、顔の筋肉がカッチカチにかたまり、ひきつれをおこしたり硬直したりします。

こう聞いただけでは、何がツライかよくわからないと思うのですが、顔というのは頭や首につながり肩につながっています。
つまり顔がひきつる・かたまるということは、体の胸より上の部分のすべてがひきつる・かたまるということとイコールなのです。

そしてひきつり、かたまった体は悲鳴を上げていきます。

目と口はひきつって閉じられないので、動かない筋肉をなんとかして動かそうと顔にめいいっぱいの力を入れます。そうすると頭は頭痛を起こし、首・肩まわりはかちかちにかたまります。
これがひどくなるとめまいがしてきて、吹雪のなかで頭痛とめまいで動けなくなって家族に迎えにきてもらったこともありますしょぼん


このように顔面麻痺にとって寒さは大敵どころじゃなくて大大大大大大大大大大大敵!なのですビックリマークプンプン
ななみんの夢は、常夏の国に移住することです。
プーケットがいいなぁハイビスカス


そのうえですね、ななみんはもうひとつの後遺症で左目から涙がでません。
永遠のドライアイなのですね。なにしても治りませんよ。メガネとか手術とかね。
なので麻痺で目が閉じられないことのツラさはハンパないのです!!


みなさん健康な人は、目にちいさいゴミが入ったら自然と涙がでて、ゴミを目の外に押し出してくれますね。
でも、ななみんの目はゴミを外に押し出せません。
みなさん気づいてないかもしれないけど、風はたくさんのちいさなゴミを運んできて、それがどんどん目の中に入ってきています。
夏なら湿気がゴミを包んでいるので、ななみんにもわからないくらいです。
でも冬の乾燥した風が運んでくるゴミは、ダイレクトにななみんの目を直撃してきます。
もうほんとうに痛いのよーー叫びあせる


だから、ほんとうに心の底から冬が嫌いです。怖いです。
一年の半分が冬だと思ってます。寒さに苦しむ期間が一年のうち6ヶ月くらいなので。


今年こそは苦しみをすこしでもやわらげるべく、いろいろ対策を講じていきたいと思います!
朝夕の蒸しタオルとかお灸とか。
ほかにも、こんなのあるよとご存じの方!ぜひ、ななみんにお知らせくださーいよろしく

こにゃにゃちは。

ブログを読んでくださっている人が増えてきてうれしいですにこにこ

これまで、誰かにじぶんの病気のことを話すこともあまりなかったので、

わたしとしても、こうやって書くことで、ストレスがやわらいだり、新しい発見があったりします。


となると、「脳腫瘍」「軟骨肉腫」っていっても、???って人も多いだろうし、

わたしもきちんと記録したことがないので、

これからじぶんの病気そのものについても記録しようと思います。


このブログをよんでくださってる方の中には、医療関係者もおられると思います。

もし間違いがあったら、「ななみん、そこ間違ってるよっ!」っていうコメントをいただけるとありがたいです!seiよろしくおねがいします。


まずは脳腫瘍について。

よく、全人口に対する全頭蓋内腫瘍、つまり全脳腫瘍患者数って、10万人に10人っていいますよね。

たくさんの論文のイントロダクション部分に、そう書かれていますね。

これって2013年現在でも変わっていないんですかね?


軟骨肉腫の患者は全脳腫瘍患者の0.16%といわれているので(この数字もだいじょうぶかしら)、

ちょっと計算すると…、

全人口のうちの1000万人に1.6人が、ななみんと同じ病気ということですね。

すくなっっハッ驚いた人


おなじ病気をもつ人と交流をもちたいと思っているななみんには衝撃的な数字……しょぼん

でも、日本の人口が1億2千万人だとすれば、日本に20人くらいはいるのよねうれし泣き

って、それでも20人か・・・・・・

そのなかで、歳の近い人、同性の人はどれくらいいるのかな~。


今回はじぶんの病気についてまだまだ勉強不足なのでここまで。

次回のアップまでに、もうすこしちゃんと勉強してきます!


konatuこんにちは。

思い出したくないって、ずるずる逃げていた病歴を書き始めます。


つーか、これをきちんと記録しておいて、いつかまた再発してしまったときに、
これまでの経験を活かしてなるべく自分の希望に沿った、
体の負担、経済的な負担の少ないチョイスができるようにすること。
これがこのブログを始めた動機なのです!逃げてる場合じゃないぞー!おしっ!がんばる


というわけでまずは年表的に。


1993年
9月(13歳)
新学期になって、教室の中でじぶんの声がみんなに聞こえにくくなっていることに気づく。
音楽の授業で合唱するときに声が出にくいと感じる。


すぐに、地元の耳鼻咽喉科に行き、声帯にポリープがあると言われ、大学病院耳鼻咽喉科を紹介される。

翌週あたりに紹介された大学病院で内視鏡で声帯を診てもらう。
診察した医師は「ちょっと左側の声帯の動きが鈍いように見えるけど異常というほどではない」との診断。
つぎに老教授による診察を受け、十数人の医師にかこまれた状態で老教授から「気のせいだね」と言われる。

すでにこの時、じぶんでは、日々の生活に不自由を感じるようになっていたけれど、大勢の大人にかこまれて「気のせいだ」と言われたら、子どもにはどうすることもできませんよね。


わたしは、じぶんが間違っていたのか、みんなに迷惑をかけてしまったのかとひどく傷つきましたkonatu

このときに受けた、いわれのない暴力は一生わすれることができません。

(せめて「異常はないけど、ひどくなったと思ったらいつでも見せに来て」といわれていたら、こんなに不信感が強まることはなかったと思います)


けっきょく、この3か月後に脳腫瘍がみつかり、彼らの診断は間違っていたことが証明されるのだけど、彼らから謝罪の言葉はまったくありませんでした
「気のせいだ」と断定されたことで、悪化していく症状もじぶんの気のせいなんだと思い込み、周囲が心配するほどの状態になってようやく再診・精密検査ということになったのにです。


これまでの記事で、わたしがこの大学病院の耳鼻科へ不信感をもっていることを、たびたび書いてきましたが、それはこういう背景によります。

やっぱり幼いときにうけた傷は、大人になってもなかなか癒えませんし、傷をさらに深くするようなことがあれば、なおさら不信感は強まっていきます。



1994年
1月(14歳)
明らかに声が出なくなり、同じ耳鼻咽喉科に再診。ようやく左側の声帯麻痺が認められる。
すぐに精密検査へ。バリウムを飲んで食道の検査をするなどし、念のために頭部CT検査をしたところ脳腫瘍が発見される。同大学病院脳神経外科に移る。


2月 
脳神経外科に入院。もろもろの検査を受ける。このとき同病院に3DのCT機器がないとのことで、横浜の病院まで検査に行ったことを覚えています。
病気に歴史ありだなぁ。

左の太もも付け根の大動脈からカテーテルを入れて、脳の状態を詳しく見る検査を初めてやったのも、この時でした。
それから手術のたびに1、2度やるおなじみの検査なのですが、わたしはこれに使われる造影剤に弱くて、検査後にひどい吐き気に見舞われます。
これには、検査後すぐに点滴に吐き気止めを入れてもらえば回避できるのですが、その対応をするようになったのは3度目の手術から…。
はぁー無駄に苦しんでしまったなぁ。


3月
脳腫瘍摘出手術をうける。8時に病室を出て、戻ってきたのは夜9時でした。
よく、テレビ番組で「6時間におよぶ大手術」なんて言っているのを聞くと、かえってしらけてしまいます。
みんな、苦しい思いをしているから、時間でなんか比較できないんですけどね。

テレビ局ももうすこし違ったセリフを考えてほしいですねひらめき電球


当時は、坊主頭にさせられ、術後48時間くらいは気管に呼吸用の管を入れられていました。
これが苦しかったーーーっ!
すぐに淡がつまって息ができなくなるし、そもそものどに太いパイプが入っているんだから辛くてつらくてしょうがない。


首より上に怪我や傷があるっていうのは、本当につらいことなんだというのを実感しました。

いま思い出すと、痛かったこと、苦しかったことが多くてびっくりします。
当時はほとんど弱音を吐かなかったわたし。ちょっと自分でじぶんをほめてあげたいかも。えらかったね。
いまじゃ、神経も図太くなって、こんなガマンしないだろうなー(笑)


けっきょく、このときは術後の後遺症もなく、2週間ほど経過を見て退院しました。
声帯は、脳腫瘍を摘出しても、麻痺が残ったままでした。
これは同年8月に2週間ほど入院して(今度は耳鼻科)、麻痺した声帯にシリコンの支えを入れてもらう手術をうけたことで、健常者とほとんど変わらないくらいまで声が出せるようになりました。


このときは、じぶんの病気はこれでもう終わったんだと、心から信じていました。