長いものには巻かれよ
【注釈】 | 自分の手に負えないほど長いものには、逆っても無駄だからおとなしく従ってしまったほうがいいということ。 |
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有名なことわざですけど、これって個人的に違和感があります。
どこに違和感があるのかっつうと…
相手が手に負えないほど長いものなのに、「巻かれること」の選択肢が自分にある点です。
世の中、我々凡人にはまったく手の付けられない強大なものってのはいくらでもあるもんで、それは権力であったり才能であったり経済力であったりいろいろです。それは本来津波や火山爆発のようなもので、その「あおり」を食らうことについてこちらに選択権などはないものと思います。
つまり、長いものには巻かれよ、ではなく「長いものには巻かれる」んです。
小川のさざ波には流される流されないにはアドバンテージが川の中に入った人側にありますが、津波を前にしては有無を言わさず流されるしかありません。
何を言いたいのかというと、よくその辺にいる自分を媚びないとか人に流されないとかいろいろ自分はブレないと言うヤツは、多分ホントの長いものに出会ったことのない井の中のなんとかか、あるいは自分が流されることのない津波そのものであるかのどっちかってわけです。
聖帝サウザーの「退かぬ、媚びぬ、省みぬ」ってのはサウザーがまがいなりにも「帝王」でありその器に値する人物であったから絵になるものです。これを凡人がやったら
まあ何が言いたいのか自分でもわかんなくなってきましたが、要は自分が思っているほど他人はお前のことなんか見てねえし、誰もお前の自分論なんて聞きたくないし、お前は自分が思っているほどすごくもなんともねえんだってことをほとんどの人が理解していた方が幸せになれるんだということを理解することこそが「長いものに巻かれよ」ということだと思います。
自分ではどうにもできない「自分は実はたいしたことはない」という認めたくない現実。
これこそ唯一の巻かれるか巻かれないかの選択権が自分自身にある長いものです。
「自分の器を見極めよ」
これが「長いものには巻かれよ」の真の意味なのではないでしょうか。
長いものに巻かれる。それは他の強者に媚びへつらうとか言いなりいなるとかではなく、自分自身を正しく見つめて、その力を最も最高効率で使うためにはどうすればいいか考えろってことだと思います。自分をいつまでもフェラーリだと信じるのではなく、軽自動車だと認めてできる限りの最高の改造をほどこせってことであると。さすれば3速までしか入らない自分をフェラーリと勘違いしてるアホな高級国産車には勝てるってことでしょう。