さよなら | なかよしこよし

お久しぶりです。


耳が聞こえなくなってからというもの、僕は怠惰と堕落に満ちていた。

いや、きっと正確には何もかもを病気のせいにして現実から目を背けていただけなのもかしれない。


思えばこの数ヶ月で様々な出来事があった。

順風満帆とは言えないまでも、それなりに充実していた仕事を突然失い、決心を乗り越えて共に暮らしていた愛猫までも失ってしまった。


それまで趣味と呼べるような趣味も持たず、生きる屍のように仕事へと足を運んでいた愚鈍な男。

お喋りに花を咲かせる同僚を横目にしながらキーボードを叩いていた男に平均的なコミュニケーション能力など備わっていなかった、備える機会すら自ら放棄していた。


仕事で忙しいから。


遊びの誘いを持ちかける数少ない親友に電話越しでそう伝える。それが僕の口癖になっていた。

友達用にとワクワクしながら流行り の曲を着信音にしたものの、今ではその曲もオリコンからとっくに圏外へと追いやられ、いつしか完全に耳にする機会も無くなってしまった。


そんな僕が常に用意していた「仕事」という退路が絶たれてしまった時、それは圧倒的な勢いで僕の心を支配した。


難聴が原因で入院してからというもの、僕の病室を訪れてくれる人は家族以外誰もいなかった。

狭い病室で一人っきり、別に期待してたわけではない。そう心に言い聞かせている自分がいた。


ぼんやりと病室の白い天井を見上げる。

家族が帰ってからというもの、僕は会話するという事を忘れていた。

だから何かを思い出したように一人で小さく喋り出す。

それは僕がまだ言葉を失っていないか確かめる為。

僕の声を僕の耳が拾い、まだ僕の声が誰かに何かを伝える事が出来るか確認する為だ。


しゃがれた声で今日あった事を誰かがいるかのように話し掛け、しばらくすると僕はそのまますっと眠りに落ちていった。



「…!……!!」


誰かの話し声が遠くで聞こえる。

次第にそれは鮮明に、はっきりと僕の耳が捕らえるくらいに大きさを増していく。


誰か来たのかもしれない。


まだ意識が半分しか繋がっていない状態であるにも関わらず、僕の心は激しく躍った。

今まさに起きたかのように面倒臭そうに目をこすり、照れ臭い気持ちを抑えながらゆっくりと身体を起こす。


そして目を開ける。

そこには点けっ放しにしてあったテレビ以外、僕の病室は誰の姿も無かった。


「ハハッ、なんだよそれ…」


思わず笑いが込み上げて来る。

思えば久しぶりに笑った気がする。

喉が痛く程に笑い、いつしかその感情は涙へと姿を変えて僕の双眸から溢れ出した。


何故泣いているんだろう。


道路脇に投げ捨てられた肉の塊。

首輪を付けていなければ自分の飼い猫だと気付かない程に変わり果てた姿を見つけたあの時、僕の心は完全に死んだと思っていた。


涙一つ流さず、地面に埋める自分の冷酷さに吐き気すら覚えた。


死んだのはムーだけじゃないのに、それなのに何故今更になって僕は泣いてるんだろう。


色んな感情がグチャグチャになり、胸が痛くなるのを両手で抑えながら、僕は突っ伏すかのように泣き腫らした。

仕事の事、ムーの事、色んな悲しみや不安が堰を切ったかのように溢れ出す。


ムーはもう帰ってこない。


でもきっと僕と過ごした時間は短い生涯の中できっと幸せだったと思ってくれてるはず。

どれだけ先になるか分からないけど、また向こうで僕を待っていてくれるならその時はまた遊ぼう。


だからそれまでは僕も頑張るよ、守ってあげられなくてゴメン、そして今までありがとう。


愛猫