日本は敗戦したのではなく、終戦したのだ! ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

僕の昨日のブログ『移民と外人部隊』に以下のようなコメントがありました。

  「もはや「日本政府」は存在しないのです。これが現実。戦争に負けるということ。今やかつての日本政府と呼ばれるべき組織は、朝鮮人、その他外国組織の出先機関なのです。考えてみれば当たり前の事でした。なぜなら戦争に負けたのですから。それを忘れていては本当の復興は無理でしょう。根本の現実をまずは受け入れそしてそこからでしょう。根本の原因を忘れている(忘れさせたのはGHQですが)ので当然最終着地目標が大幅にぶれるのです。」(桃山心)さんというご意見がありました。  

  しかし、この考えは違うと思います。それについて僕はチョッと言いたいことを述べたいと思います。あの戦争は「戦争に負けた」というところから、洗脳が始まっているのです。みんなそのように思い込んでいるのです。「戦争に負けた」というのが洗脳です。

 司馬遼太郎は「朝鮮を植民地にした日本」と何度も言っています。「戦争に負けた」という第一前提が、日本人に刷り込まれてしまったのです。その洗脳が効いてしまうと、このような意見になるのです。

  しかし、あの戦争は負けていなかったのです。元空将の佐藤守さんは「あの戦争は勝ったのだ」と言います。特に南米に移民していた人はみなそう思っています。天皇陛下の「開戦の詔勅」にハッキリと「大東亜を植民地から解放する戦いである」ということが書いてあります。

   これを「大東亜戦争」と名付けたのです。天皇陛下は「戦争の目的は大東亜の解放にあるのだ」と言われていたのです。それで日本が戦ったのです。

  その結果として大東亜から白人の植民地はなくなったのです。シナも、インドネシアも、ベトナムも、フィリピンも、みんな白人の植民地だったのです。それを解放したのが大日本帝国です。

  この戦争の目的は完全に達成されたのです。いつ大東亜戦争が終わったのかというと、元空将の佐藤守さんによると、ベトナムのサイゴン陥落(1975年)をもって大東亜戦争は終わったのです。すごい考え方です。それまで日本は大東亜戦争を戦っていたのです。

  多くの日本人は「戦争に負けたから戦争は終わった」と思っていたのですが、終わっていなかったのです。誰が戦っていたのかというと、陸軍中野学校出身の残置諜者です。小野田寛郎さんは中野学校の卒業生です。卒業生はみんな目的をもって東南アジア諸国に散ったのです。これが小野田寛郎さんです。小野田寛郎さんは、たっぷりとお金をもっていたのです。通信機も機関銃も弾も5千発以上もっていたし、現金も1億円くらいあったのです。

  横井庄一さんのように逃げてきて穴倉に入っていたのではありません。小野田寛郎さんは戦っていたのです。戦う目的をもってルパング島にいたのです。武器をたっぷりもっていて部下も20名くらいいたのです。将校は小野田寛郎さん一人です。

  小野田寛郎さんだけが残置諜者なのかというと、そうではありません。北朝鮮にも残置諜者はいたし、シナにもいたし、ベトナム、タイ、インドネシア、フィリピンにも残置諜者がいたのです。陸軍中野学校の残置諜者は約800人いたと言われています。

  「日本は戦争に負ける。従ってお前達は地下に潜れ。現地人になりきれ。日本語を話してはならない。徹底的に現地人になりきるのだ。そして、日本の復興の時に備えよ」という命令です。そして、「各国の植民地を独立させよ」そのような命令をもって800名の残置諜者がアジアに散ったのです。

  アジアの国々は西洋列強の植民地だったのです。自前の軍隊などもてるわけがありません。自前の軍隊もなければ、軍事教練などしていません。戦争を知らないからできないのです。白人は植民地の人間にそんなことは教えません。

  残置諜者の連中は何をやったのかというと、学校をつくったのです。ベトナム人も、インドネシア人も軍人としての教育をしたのです。その役割を残置諜者の連中がやったのです。残置諜者の連中が銃をもってバンバン戦ったのではなく、教官として戦い方を教えたのです。植民地には軍隊がありませんから、軍隊などできません。現地へ行って残置諜者が軍をつくったのです。    それをみんなカン違いしています。「インドネシアのために銃をもって戦った」と言うのですが、そうではありません。学校をつくったのです。しかも、日本人とわからないようにして、教育を行ったのです。

  立派な学校を創り、軍人を養成したのです。それで戦ったのです。インドネシア義勇軍、ベトナムの解放戦線などみんなそうです。ベトナムでは今でも日本の軍歌を歌っています。帽子も日本軍に似ていたのです。

  ベトナムは穴を掘って散々米軍を困らせました。あれは硫黄島の栗林中将の戦法を真似したのです。トンネルを掘って掘りまくったので、米軍が枯葉作戦をやっても地下まで届かないのです。

 ベトナム兵がポカッと穴から出てきて、攻撃するとまた穴に入ってしまうのです。米軍は怖くて穴に入れません。最後にサイゴンが陥落して米軍は一切の軍備を置いて逃げたのです。ヘリコプターで逃げた米軍兵士もいれば船で逃げた者もいます。着の身着のままで米軍が逃げてサイゴンが陥落したのです。その日をもって大東亜戦争は終結したのです。

 佐藤守さんはこのように言っているのです。このような意見の人は昔から多いのです。日本人は目的をもって戦争をします。サイゴンが陥落して「大東亜の解放にために戦争をする」と言われた天皇陛下のお言葉がまさに実行された日です。ベトナム人は日本軍に対して敵対関係など全くありません。むしろ感謝しています。

 残置諜者はベトナム戦争が終わっても日本に帰らないで、現地に残ったのです。朝鮮もそうです。北朝鮮が成立するためには、残置諜者がどれほど戦ったのか、はかりしれません。畑中理が北朝鮮を造ったのです。

 大東亜戦争は終わっていません。海軍は手ひどく米軍にやられたので、あれは太平洋戦争です。太平洋戦争と大東亜戦争は目的が全然違います。「太平洋戦争は米軍に負けた」と軽く言ってよいでしょう。大東亜戦争は日本が勝ち切ったのです。

 何回でも言いますが、戦争は目的を達成したことをもって勝利といいます。大東亜戦争を戦い抜いた大日本帝国の戦いは重要だったのです。

 天皇陛下が出されたのは、「敗戦の詔勅」ではありません。「終戦の詔勅」です。「戦争が終わった」ということです。ドイツ軍は、「開戦の詔勅」もなければ「終戦の詔勅」もありません。ヒトラーは地下に逃げて自殺したのです。「ヒトラーは生き延びた」という意見もありますが、最後はナチスの上層部が煙のように消えてしまい、何が何だかわからないのです。

 日本はそのような戦争とは違い、戦争の目的をもって米英に宣戦布告をして始めた戦争です。最終的に日本は勝ったのです。あくまでも終戦なのであり、敗戦という言葉は間違っています。(②に続く)  

 

■大日本帝国連合艦隊の開戦時の戦力

 

●軍艦(富士山、摂津、和泉丸、武蔵、河内丸、東 、千代田形 、春日、龍驤、第一丁卯、第二丁卯、乾行 、孟春 、雲揚 、筑波、浅間、清輝、雷電、陽春丸)全十九隻
●戦艦(扶桑、富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠、壱岐、丹後、相模、周防、肥前、石見、香取、鹿島、薩摩、安芸、河内、摂津、金剛、比叡、榛名、霧島、扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥、加賀、土佐、大和、武蔵、110号艦、111号艦、改大和型 797号艦、超大和型 798号艦、799号艦)全四十隻
●航空母艦(加賀、龍驤 、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、雲龍、天城、葛城、大鳳、信濃、祥鳳、瑞鳳、龍鳳、千歳、千代田)全十六隻


※大日本帝国は、軍艦十九隻・戦艦四十隻・航空母艦十六隻を持っていたのです。今になってあせって航空母艦を一隻造っている国とは、比較にならないくらいの国力があるのです。日本は、世界に冠たる大日本帝国だったのです。

 

 

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