童話的私生活【中央図書館A】その六『アネモネになったアドニス』
赤い、血のように赤い、アネモネの花よ……
『アネモネになったアドニス』
ギュスターヴ・モロー『アフロディテ』 1870 ハーバード美術館所蔵
女神アフロディテがアドニスに声をかけます。
「かわいい、かわいい、アドニスよ。
永遠の美少年よ。
わたしは、おまえのためなら、なんだって、しよう。
だからわたしに、その顔を見せておくれ。
美しい、美しい、その顔を、わたしに、このわたしだけに……」
「クソっ!」
さけんだのは、エロスです。
女神アフロディテには、エロスという子どもがいました。
後の世で、恋のキューピッドとも呼ばれるようになる、そのエロスが、横から口をはさんだのです。
「やってらんねえな、まったく!
まただ! また、また!
浮気性のオカンほどタチの悪いものはないね」
「なんだって!」
アフロディテはサッと手を振りあげて、エロスをにらみつけました。
「空耳ですよ、お母さま、空耳」
エロスはすっとぼけます。
ですが、すぐに声を落として、ぶつぶつと、しつこく、しつこく、また、つぶやきはじめました。
「まったく、どういうつもりだ?
ほんと、子どもの立場にも、なってみてくれよ。
浮気してもいいけどさ、わかんないように、やってくれないかな。
まったく、いい年して。
相手も、おまけに、子どもじゃないか」
「聞こえてるよ!」
アフロディテは、「シッ」と言って腕を振って、振って、振って、エロスを追いはらおうとします。
けれどもエロスは背中の羽根をぱたぱたさせて、軽々とアフロディテの手をすり抜け、横に、後ろに、上に、行ったり、来たり。
アフロディテはすっかり疲れてしまいました。
「くそガキがっ! おぼえてろよ!」
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 『ヴィーナスとアドニス』 1555 メトロポリタン美術館所蔵
アフロディテはアドニスにむきなおりました。
「とにかく、アドニス。
おまえの顔を、よく見せておくれ」
そう言って女神アフロディテはアドニスを抱きしめると、
両の手のひらでアドニスのほおを、そっと、包みました。
「おや?
アドニス、この傷はなんだい?」
アドニスのほおには、小さな、小さな、すり傷がついていたのです。
「アドニス、いつも言ってるだろ?
狩りが好きで野山を駆けまわるのはいいけど、ほどほどにしなさいって。
わたしだって、おまえの好きなことにつきあいたいのは、やまやまさ。
ただそうは言っても、愛の女神でもあって、ギリシア最高の美を誇る、このわたしが、
まさか、あの田舎娘みたいに、年がら年中、狩りをしてるわけにもいかないだろ。
この間は、ちょっとだけって、つきあっては、みたけど、
まあ、もう、こりごりだ。
まだ足がぱんぱんだよ、まったく」
「アフロディテ」
アドニスが口を開きました。
「田舎娘って、だれのことでしょう?」
「アル……、ウン、うぉほん、ウン。
まあ、だれだっていいいさ」
女神は続けます。
「とにかく、アドニス。
おまえは、この世にまたとない、それはそれは、美しい男の子なんだ。
男としての勇気をひけらかすのもけっこう。
でも、お願いだから、そのきれいな顔に、傷だけはつけないでおくれ」
アフロディテはアドニスの顔に口を近づけました。
ところが、あとちょっと、というところでエロスが邪魔をするのです。
「結局は顔ですかい、男の価値は」
「なんだって!」
「真実を言ったまでです、お母さま」
「クソったれな、この、ハナタレ小僧がっ!
うるさい、うるさい、うるさいよ!
なまけてないで、はやく、仕事、しといで!」
女神は犬でもはらうようにして、息子のエロスを追いはらいました。
「アドニス。
今、森にはアルテミスが来ているらしい。
さっき知らせがあった。
アルテミスが来ているときに、男のおまえが森に入っちゃいけない。
アルテミスは何よりも男を嫌う処女神。
わかったね」
アフロディテはそう言うと、アドニスのほおにキスをしました。
アフロディテが帰ったあと、
アドニスは、すぐに槍を手に取りました。
「さあ、犬ども、おまえたちも話しは聞いたね」
アドニスは猟犬たちに話しかけました。
「森の中に、アルテミスが来てるって。
アルテミスは狩猟の神さまだ。
ぼくの腕前を見せれば、きっと、ほめてくださるにちがいない。
絶対に、そうさ。
なあ、おまえたちもそう思うだろ?」
アドニスは手に槍を持ち、猟犬をたずさえ、家を飛びだしました。
暗い森の中、
アドニスの犬たちがイノシシを見つけだします。
一匹のイノシシです。
そのイノシシは、今までだれも見たことのないような、それはそれは雄々しい立派なイノシシでした。
「よし、あれを仕留めれば、ぼくの腕前は並じゃないってことを、そうさ、たとえそれが人間の男の、ぼくだったとしても、アルテミスは認めないわけにはいかないはずだ」
アドニスは槍をかまえます。
「さあ、犬ども!
はやく、そいつを、ぼくの前に!」
猟犬たちに追いたてられたイノシシが藪の中からアドニスの前に飛びだしてきます。
そうしてアドニスにむかってきました。
砂煙を、モウモウと、たてて。
その背は山のように大きく盛りあがり、
針のようにとんがった茶色い毛はゴワゴワしていて、
長い牙をはやした口元からは、だらだらと、よだれがたれていました。
目は、すでに、アドニスしか、見ていません。
アドニスが槍を振りあげます。
チャンスは一度。
「よし!」
急所をめがけてアドニスが槍を投げつけます。
それはアドニスの短い人生の中でも、最高の一投でした。
イノシシどころか、クマだって、トラだって、ライオンだって仕留められるくらいの。
槍がイノシシに刺さります。
けれどもイノシシは倒れません。
倒れるどころか、そのまま真っ直ぐアドニスにむかって突進してきました。
まずいと思ったときには、すでに遅く、
アドニスは突進してきたイノシシに、太ももを、牙で、深くつらぬかれ、
倒れていました。
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
うすれゆく意識の中でアドニスは、そればかりを呪文のように何度も繰り返していました。
やがてその声も聞こえなくなります。
あたりは一面、アドニスの血でいっぱいでした。
ジュゼッペ・マッツォーリ 『アドニスの死』 1709 エルミタージュ美術館所蔵
アドニスは死にました。
アドニスにむかってきたイノシシは、普通のイノシシではなかったのです。
女神アフロディテの恋人、
残忍な軍神アレスが身をやつしたものでした。
人であるアドニスがいくら力を尽くしたとしても、
それはとても仕留められるものではなかったのです。
知らせを受けて女神はすぐに、アドニスのもとを訪れます。
「アドニス!
アドニス、アドニス、
わたしのアドニス。
だからあれほど言ったのに!
おまえの美しさに勇気はいらぬ。
冒険心など、これっぽっちもいらぬのに。
それは世俗の男どものためにあるもの。
天上の美しさを持つおまえには、まったくもって必要のないもの……」
女神は声をあげて泣きました。
そのほおを、涙がつたっていきます。
そして涙は、アドニスの血の上に、ぽたり、ぽたりと落ちていきました。
「アドニス。
おまえを永遠に、わたしのもとに置いておこう。
もう、だれにも渡さぬ。
わたしの季節のはじめ、毎年必ず春に、おまえが咲くようにしてやる。
そしてわたしはおまえを見つけしだい、すぐに摘み取り、散らせてしまおう。
おまえは、わたしのためだけに咲けばそれでいい。
わたしのためだけに」
女神はそう言うと、ふーっと、アドニスの血に息をふきかけました。
するとそこから、茎が伸び、葉が開き、花が生まれます。
すでに濁った黒い冥府の血の塊から、あざやかな赤い花が生まれたのです。
それは、若々しい、あざやかな、血の色をした花でした。
アドニスは、アネモネになったのです。
女神アフロディテに愛され、
死後もなお、花となって生き続けるアドニス。
ただ、それでも、
アドニスの男の子としての勇気と冒険心を、
アフロディテは、おさえることはできませんでした。
アネモネの種は風に乗って運ばれていきます。
アドニスはアフロディテに隠れて、
こっそりと、どこかで、
今もなお、花を咲かせているのです。
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆