団塊の世代は年金食い逃げ世代であり、逃げ切りを謀ろうとしている | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

 正月に単身住まいの息子(30代半ば)が帰省して、少しばかり話をしたのだが、周りにいる同年代の友達の多くが非正規雇用で、明日どうなるか分からない心細い身分にあり、将来に全く望みが持てない状態に置かされている、それが現実だ、このままでは恐ろしい社会になる、政治を変えなきゃ、と畳み掛けてきた。

 小生はタジタジになり、返す言葉も見つからず、“んー、大変だなあ”と、うなるしかなかった。それ以来の数日間、若者世代の今の現状と、自分たちの世代の今までと将来見通しとを比較しつつ、自分たちはこれからどうあるべきで、また、自分がやってやれることは何なのかを今一度見つめ直してみた。

 その中で、年金問題が真っ先に頭に浮かんできたので、その問題について、小生の思いを述べることにしよう。


 小生は、“団塊の世代”の真ん中、昭和23年生まれである。その人数の多いことと言ったら、人口ピラミッドを見れば一目瞭然だ。
 人数が多い分、本来なら、激しい競争が子ども時代、青年時代とずっと続いて、食い物にありつけずに餓死したり、仕事に就けずに落ちこぼれたりした者が出てきてもよさそうなものだが、決してそうはならなかった。

 戦後復興とそれに続く高度成長に乗っかって、食にも職にもあぶれることなく、そればかりか安定した高収入さえも得られ、安楽な生活を満喫することができたのである。少々不自由させられたことと言えば、学校の教室がすし詰めであったことぐらいなものである。また、中年になって管理職の椅子が狭き門となったが、それは欲というものであって、管理能力が落ちる者はその職をあきらめるしかないのであり、景気がいい時代にあっては管理職は笑いが止まらなかったであろうが、逆に、バブル崩壊以降は管理職ほど気の毒な職種は他にないと言えようから、この段階でも不自由さはなかったであろう。

 こうして、“団塊の世代”は、幸運にも栄華を極められたと言っていい。
 これが、今のような低成長が長く続く不景気な時代に育って社会人になっていたとしたら、どうなっていたであろうか。それこそ餓死する者が出てくるし、街は若い浮浪者であふれかえっていたことであろう。

 我々“団塊の世代”が、今まで生き長らえてきた半世紀少々を、こうして振り返ってみると、実に良き時代に生まれ育ち仕事をさせていただけたものだと、深く感謝せねばならない。


 さて、“団塊の世代”のこれからが問題である。昨年から65歳“年寄り”組に参入する者が急増しだした。今年は小生もその仲間入りをする。

 これに関して、我々“団塊の世代”が10年先に“後期高齢者”になったときには、介護が不可能になることを、約1年前に別立てブログで次の記事に書いた。
   2012年問題に突入、今年から“年寄り”が急増

 一言で言えば、学校の教室はすし詰めでもいけたが、介護施設はそうは参らず、“あぶれる”者がいっぱい出てくるのは避けられない、というものである。


 また、年金は先延ばしになり、もらえるようになったら予定の半分という恐れがあることを、9年前の当店新聞記事に書き、それをブログ版として1年少々前に別立てブログで次の記事に書いた。

   働くことは卑しい?美徳?

 この記事には、最新の将来見込みも付記し、少子化が進んでも年金は予定どおりもらえるケースもあると書いたが、それには完全雇用が実現することが大前提であって、これが危ぶまれる情勢にあるのだから、かようなことは絶対に無理であろう。


 そもそも現行の年金制度は、今のような低成長のもとで“団塊の世代”の者たち全員に年金を満額支給するようにはできていない。
 受給者があまりにも大勢いるのだから、薄撒き配当するしか方法はないのである。小学生が計算したって簡単に答は出てくる。
 でも、“団塊の世代”は、年金を“食い逃げ”しようとしており、“逃げ切り”を謀ろうとしている。そして、消費税の増税も決まったし、その後も税率をアップしてもらえるだろうから、どうやら安全に逃げ切れそうだと思っている。
 “我々はもう十分に働いたから、上の世代のように十分な老人医療・介護と余裕しゃくしゃくの年金生活を自分たちもしたい。”
 このように考えているのであり、これは、小生とて、本音としてはある。


 しかし、上の世代、特に昭和1桁世代がどう育ち、どう働いてきたのかを思い起こしてみると、我々“団塊の世代”は、彼ら諸先輩の犠牲の上に単にあぐらをかいてきただけの存在であって、将来に向かって格別に何かを切り開いてきたわけでもない。
 とどのつまりがバブルを作ってそれを弾けさせただけであり、バブルが弾けた責任は“団塊の世代”が取らねばならないのははっきりしていよう。

 百歩譲って、バブルの動かしに決定権がなかったから責任はなかったと認めたとしても、それ以降は世の中ががらりと変わったのだから、少なくとも従前の社会システムが働かなくなったことを認めねばならない。

 そして、我々“団塊の世代”は、上の世代のお世話になって楽しませていただけたのであるから、今度は、我々“団塊の世代”は、後に続く世代の世話をし、後に続く世代を少しでも楽しませてやらねばならないのは、当然の義務である。

 それがどうだ。バブル崩壊からちっとも脱却ができず、景気は低迷したままだし、賃金はどんどん低下しているし、若者の多くは非正規労働者にさせられている。こうしてしまった責任は、やはり“団塊の世代”が取らねばならぬ。
 新たな社会システムを作るに当って決定権を持っている“団塊の世代”は、皆が能無しばかりだったから、景気を浮揚させられなかったのだし、将来展望も切り開けなかったと言わざるを得ないのである。


 こうしたことどもを考えると、我々“団塊の世代”は、潔く“何もできなくて申し訳なかった。”と土下座するしかないのである。

 しかし、謝ればそれで済むものではない。我々“団塊の世代”はまだまだこれからも動けるのであり、その行動でもって責任を取らねばならないのである。

 でも、将来展望を切り開き、若者に夢と希望を与えられるようになるまでには相当の歳月がかかるのは必然だし、いまだにその兆候は何一つ現れていない。
 よって、これから当分の間、それは、我々“団塊の世代”が10年後に“後期高齢者”の仲間入りをするまでかかるであろうとの覚悟を持って、それまで、いや、場合によってはその後も、少なくとも“ハタラク”責務があろう

 なお、“ハタラク”ことには、いろいろな方法があろう。これも、別立てブログで約1年前に次の記事に書いたから、ご一読願いたい。

   “働く”とは、“ハタをラクにできて、うれしい”


 しかし(また、しかし、であるが)、これでもってしても、後に続く世代に対して責任を果たしたことにはならない。

 先に書いたとおり、“団塊の世代”は、年金を“食い逃げ”しようとしており、“逃げ切り”を謀ろうとしているのであり、どうやら安全に逃げ切れそうだと思っているのだから、あまりにも横着すぎる。
 それは、政府が立てた年金財政見通しを見れば何とかなりそうで、これでごまかしが利くだろうと思っているからであろう。その財政見通しはと言うと、完全に絵に描いた餅であり、高い賃金上昇率・高い物価上昇率・高い運用利回りを想定した上に、年金保険料率をだんだん上げていくことで成り立つとしているのであるから、このような現実離れした想定であっては、年金財政が早々に破綻することははっきりと目に見えている。また、基礎年金だけについて見てみると、早急に国庫負担割合を上げないことには直ぐにもパンクするのであり、つまり国民の税負担イコール現役世代への増税でしのぐしかない状況にある。

 我々“団塊の世代”の後に続く世代は、こうした現実を直感的に知っている。知らないふりをしていると言える我々“団塊の世代”は、大いなる犯罪を犯していると言えよう。

 であるからして、我々“団塊の世代は、少々大袈裟な表現ではあるものの「年金は先延ばしになり、もらえるようになったら予定の半分となる」ことを潔く受け入れるべきであって、少なくとも疲弊している若年層に対しては、今以上に年金保険料率をアップさせてはならないのであるし、消費増税の負担を強いてはならないのである。

 これに対して、厚生年金などは強制貯蓄であり、満額もらうのが当然という意見があるし、上の世代はどれだけも積み立てせずに法外な年金をもらっているという意見もある。ただし、これは経済規模が順調に大きくなり、少子高齢化問題がない場合に限って成り立つ話であって、先に述べたとおりバブル崩壊以降は全く通用しない。

 我々“団塊の世代”の後に続く世代に重税を強い、特に若者たちを路頭に迷わせるようなことがあって果たしてよいのか。これは、道義的にも許されないことであり、我々“団塊の世代”は少ない年金で我慢し、できることなら、年金保険料率を大幅にダウンさせて若者たちの可処分所得をアップさせてあげたいものである。真っ当な人間なら、このような素直な思いが湧いてきて当然ではなかろうか。


 我々“団塊の世代”は、昭和1桁世代をはじめとする上の世代に随分と世話になり、先輩たちから大きな恩恵を受けてきた。その恩を返すのは、上の世代に対してではなく、下の世代に対してであろう。

 人間社会においては、大昔から、上の世代から受けた恩を返すのは必ず下の世代に対してであり、これによって、はじめて人間社会は成り立ってきたのである。
 これは、家族を考えてみればよく分かる。親は自分が犠牲になっても必ず子を守るのであり、これは生きている限り続くものであって、これが幾世代にもわたって繰り返されてきた。
 高齢になり体の衰えから、“あっちが痛てえ、こっちが痒いい”とわめき散らしたり、“俺を面倒見ろ、介護しろ”などとは決して言わなかったのが人間社会であったはずである。このことは、動物社会では完璧に守られている。
 それが、動物の一段上を行っているはずであろう人間が、動物以下の存在に人間を落とし込んでしまって、はたして良いものか。


 さて、自分という人間は、少なくとも動物たちのしんがりには着いて行きたい、と肝に銘じつつ、今年“年寄り”の仲間入りする小生である。

 そこで、自分はどう行動するか。それが問題であるのだが、少なくとも、いただいた年金の一部は、若者支援のためになることに寄付せねばならないと考えているところである。そして、若者の仕事を奪うことなく生涯現役を続け、ハタラク覚悟をしっかり持ち続けることであると考えているところである。

 これでもって、辛うじて責任を果たせるのではなかろうかと思うのであるが、何よりも最も簡単に確実に責任を果たせる方法は、“早よう死ぬ”ことである。その昔、飢饉で現役組の生活が苦しくなれば、年寄り組は口減らしのため姨捨山に放られたのであり、また、年寄り組は自ら進んで姨捨山に行ったのである。

 これからの世の中は、その昔の飢饉と同様な情勢になろうとしているのだが、小生には、自ら進んで命を絶つまでの度胸は、申し訳ないが、ない。

 やれることと言ったら、“俺を面倒見ろ、介護しろ”などと言い出す前に“ピンピンコロリ”と逝けるよう、老人医療の世話になることなく、日頃の健康管理をきちんとすることだけである。これについても、別立てブログ1年少々前に次の記事に書いたから、ご一読願いたい。

   TPPとPPK

 年金とともに老人医療の抜本的改革も重要な問題になるから、この記事に老人医療のあるべき姿を“ピンピンコロリ”を中心にしたためたところである。


 長々と、どうでもいいようなことを書き綴り、同年代の諸兄からは、とんでもないことを言う輩がいるものだと大きな批判を受けるであろうし、逆に、若者たちからは、そんなことぐらいで責任が果たせるかとお叱りを食うことであろう。
 たしかに、これでもってして十分には責任を果たせないことは承知しているのだが、次のことについて議論を巻き起こしていただき、少なくとも我々“団塊の世代”皆が“飛ぶ鳥跡を濁さず”で逝きたいものである。
 最近、政府は、想定外の規模で南海道地震が起きるとして災害対策に取り組もうとしているようであるが、年金財政についても同様に、想定外の悪い指標でもってシビアな見通しを立て、財源をどうするかではなく、年金支給をどうするのかを考えていただきたいのである。
 そうすれば、年金支給制度の抜本的な改革ができようというものであり、これは、バブル崩壊以降は社会システムが変わったのだから避けて通ることができない性質のものであり、ぜひ実現せねばならないものではなかろうか。