生涯で3回挑戦した人・・・4 | 本部御殿手  如是我聞 如是我見

本部御殿手  如是我聞 如是我見

琉球王家の一つだった本部家に秘かに伝承された本部御殿手 多聞館のブログです。
ブログは”私はかくの如く聞き、かくの如く見ました”という内容です。


大型台風が近づいているということで家の周りの台風対策とお買い物に行ってきましたが

2~3日分の食料を買い求める人でスーパーはかなり混んでいました。


沖縄にとっては久しぶりの台風です。



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さて先週から書いているA氏ですが上原先生が初めて対峙した時(1963年ごろ)から

平成4年(1992年)に破門になるときまでの間には実に様々な事がありました。


1976年の2回目の挑戦で先生の弟子のB氏に敗れて本部御殿手の弟子になったのですが

入門して実際に上原先生と会って指導を受けたのは16年間で僅か6回ぐらいしかなかったと云います。


しかも1回につき会うのはせいぜい2~3時間で、ほとんどが写真を撮るだけだったと云いますから

指導らしいものはしていないのだと先生は話しておられました。



しかし、それにも関わらずA氏は上原先生に以下のようなことを要望してきました。


・ X 大学に本部御殿手を教える武術部を創設するので範士9段の最高段位と

  師範会長という役職を与えて欲しい。


・ 武道雑誌に連載文を依頼されたので本部御殿手を紹介するために自分にこのような内容の

  免許皆伝書を発行して欲しいとわざわざ文面まで書いてきました。



一般的な常識から考えると驚くべき要望ですが上原先生は大学に武術部が設立されるならと

A氏に範士9段を 名誉段位として授与しました。 


しかし、さすがに免許皆伝書云々については大変立腹して私に手紙を代筆させて断りました。

私の手元にはその時の手紙の下書きが今でも残っています。



そして、その少し前にA氏の3回目の挑戦があり、その様子は私達弟子が見守るなか

中城公園で行われホームビデオで撮影されています。


3回目の時はA氏がある流派の剣術の免許皆伝をもらったということで

日本刀を使って行われましたが先生には内緒で真剣を使っていました。



なぜ、上原先生がこのようなA氏に16年も関わるようになったのか、というと

A氏は2回目に沖縄にやってきたときに「X大学の教授になりました。」といって


その肩書き等が記載された名刺を差し出し、先生はそれを信じA氏は他の人々の前で

X大学教授の~ と紹介されても訂正などは全くしませんでした。


また、A氏は初めて沖縄に来た時も、その大学の空手部員としてやってきましたので

13年後に教授になった、という言葉を上原先生が信じてしまったのも無理のない話で

確認をとるような失礼はできなかったと先生は話していました。




平成4年にA氏が次の宗家は自分である~という言動を周囲に繰り返し行っていることが分かり

経歴・職業などの正確な情報がもたらされたことで偽称などがハッキリしたので

これまでの様々な出来事や経緯などから破門になりました。