【「武」について考えると見えてくる、現代日本が失った姿勢】 | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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「武」とは、「戈(矛)」を「止める」という字から成り立っています。



「戈」は生命を絶つものとしての「凶器」であり、生命を殺戮するために用いられるもので、それが行われる一番凄惨な事態が戦争であると思います。それを「止める」と書いて「武」という字は成り立っている。これをどう考えるべきなのか?



すなわち結論から言えば、人間を虐げるところの「邪悪を止めるための努力」、これが「武」の本質なのであろうと考えられると思います。



「武」は時には「暴力」となりますが、適応する場面と対象によっては「正義」となり得る一方、使い方によっては大変な過ちのもととなり「汚名」を着せられることにも作用します。



「武」は自分の身や大切な存在を護るためには必要不可欠であるに決まっていることは、日本が平和憲法を掲げ国際紛争の解決手段として「武」を用いないと誓った(誓わされた)としても、「武」が無ければ「平和」そのものを護ってこれなかったであろうということは、自衛隊の存在と日米安全保障条約のもとに駐留する米軍の存在で証明されています。



すなわち「武」を擁して居ながらにして、それを様々な努力によって「抑止する力や思考」に傾けること、または有事に備えて使いこなすために鍛錬することで得られる「精神力」や「技術向上のための胆力」、人間同士真剣に対峙する「交渉能力」など、それら諸々を養い、それによって人間の中にある不誠実な行動や争いを掻き立てる闘争心を「止める(諌める)」ことを身につけることに意味があると思います。「戈を止める」ために「武」を磨く道が「武道」であり、ゆえに強い身体と心が養われていくのだということでしょう。



「武」を磨けば磨くほど、「武」を用いるに当たっての胆力は磨かれ、怖れも増し、誠実であろうとし、身体と心が養われて、そして遂には実際には用いないように互いに努力することを考えるようになる。「武」とは究極用いないようにするための鍛錬でしかないのですよ。



ゆえに「武」は知っておく必要があるわけです。


これは人間として生きていく上では避けられないことだと思います。




戦後、日本はGHQの政策によって教育の場面での改悪を様々やられてしまい今に至りますが、「武」を積極的に教育現場で取り扱うことが無くなってからというもの、凶悪犯罪が増え、更には前述したような「武」の心得が浸透していないことによって相手への思い遣りが欠如し、悪戯に知識や個別性ばかりを重視してしまって、「自由」という聞こえの良い価値観を単なる「自分勝手」「他人事」という独り善がりな考え方に持ち込み、「見て見ぬ振り」「我関せず」といった無責任な風潮を蔓延させてしまったと思いますね。


まさに、国際社会がどうであっても、日本は日本で「見て見ぬ振り」。それが今の無責任で自分勝手な日本の姿ですよ。「武」を理解し、真剣に考え、身につけ、そして実践すること。それ無しには真の世界平和は有り得ない気がしますけどね。


《2015/8/22(土) 富士総合火力演習より》