日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

心理カウンセラー衛藤信之があなたに届けるメッセージ。



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 気づきや悟りは、突然に訪れることがあります。
 禅寺に通わなくても、癒しスポットに行かなくても。
 
 「腑に落ちる」「腑に落ちない」の「腑」とは、はらわたという意味ですが、心の奥から納得するという意味もあります。心がそれを認める、心の底に落ちるとは、どのような感じを指すのでしょうか?
 
 哲学者のプラトンは「想起論」で言っています。人の心の奥底には、あらゆることを知っている場所があるそうです。それを「そうそう!」と認めた時に、人は何かに気づくのだと言うのです。だから、誰でも心の中に答えが宿っていて、それが現実と心の答えが一致した時に、人は忘れていた何かが起き上がり、想い出すのです。「想い出す」の英語をRememberと訳します。Re(再び)メンバー(仲間)が集まるのです。
 「よぉう!懐かしいなぁ〜。忘れてたよ、この感覚」って感じでしょうか。
 
 女性のメンタル生は、親の期待に応えながら、生きていました。
 
 彼女の思い出すシーンは、誰も来てはくれない部屋で、泣き叫んでいる可哀想な2歳の頃の風景。だから、彼女はその淋しさを、もう味わいたくなくて、親の期待に応え進学校から国立大学へ。そして、公務員になり、周囲から見ると青空の下を、大手をふって歩いているような人生に見えます。
 
 でも、彼女の中にある風景は、いつもドンよりと薄曇り。
 
 「仕事が出来る」と周囲からいくら評価されても、本心では自信がなく、いつもビクビクしていて、人に心をひらくことが出来ない劣等感のかたまり。だから、自分自身を好きになれず大嫌い。そんな自分だから「誰からも愛されるわけがない」という揺るぎない確信が心の中にありました。やがて彼女自身も二児の母となり、自分と母親が重なりあって、子どもの時には理解できなかった、母親の愛情も少しずつは頭では理解はできるようになっていきました。
 
 でも「やっぱり私は愛されない」という想いが、心の奥底でぬぐえないままでした。
 
 メンタルで心理学を学ぶために夫に「大阪で週一で勉強に行きたいんやけど」と伝えても「そうか。何時に帰ってくるんや」と、いつもと変わらず、どういうところで、どんな学びをするのかをご主人は尋ねてくることもない。彼女は「どうせ私のすることに関心なんかない。どうでもいい人なのね」という気持ちに支配され、そんな時には、涙を流している幼い頃の自分が目に浮かぶのでした。
 
 そう「私は誰からも愛されない」と究極の孤独が、よみがえって来るのです。
 
 メンタルの講座は予想以上に深く、毎回が笑いと涙と、驚きに心が揺さぶられる連続だったそうです。とりわけ彼女が気になったのが「親しき仲にも離別感」と言うメンタルで学んだ言葉でした。家族であっても、相手と私は違う…
 
 いつものように講座と食事会が終わり「楽しかった〜」とハイテンションの気分で、地下鉄に乗り、私鉄の乗り換え駅に降り立った彼女は、次の電車に乗るために財布を開いた。
 
 ん?! クレジット機能付ICカードがない!
 
 さっき地下鉄を降りたばかりだから、ないのはおかしい。絶対にあるはず。何よりも私が不用意に大切なものを紛失するはずがない。カバンをひっくり返すような勢いで三度も探し、ようやく彼女は現実を受け入れました。そう、カードを失くしてしまった…
 

 

 「ならば!カードを止めないとっ」自宅に電話をした夫に、ことの顛末(てんまつ)を話しました。黙って聞いていた夫は、いつもの通りの声で「うん、わかった」の一言のみ…
 
 彼女は久しぶりに切符を買い、タイミングよく来た電車に腰を下ろしました。とその時に、ご主人からLINEが入ったのです。
 「カード止めたからもう大丈夫。出て来ても、もう使えないからね」のメッセージ。これを目にした時に、彼女の中で一つのことが腑に落ちました。そのストンという音が確かに聞こえたそうです。
 
 現実の世界で失くし物をしたことで、すでに持っていたのに「ないない」と探し求めていた、心の世界にあった大きなものを、彼女はこの時に発見したのです。大切なカードを失くしてしまった奥さんを、一切責めることもなく、ただ淡々とサポートしてくれている静かなご主人が、そこにはいました。
 
 ず−っと、振り返るとご主人は出会った時から、何ひとつ変わっていませんでした。
 
 これまで彼女がミスを犯した時も、何も言わずにいつも助けてくれていたのです。ただ、それを当たり前のこととして見過ごしていて、人生の「足りない」と感じることばかりを探していたのです。ずーっと私は愛されていたんだ。その中で守られ支えられていたんだぁ。ストンという音と共に、その静かな思いが胸いっぱいにあふれ、彼女は電車の中で涙でいっぱいになっていました。
 
 それは私が求める形ではなかっただけだった。夫は夫なりの表現で、私を愛してくれていた。何も口出しして来ないのは、それは無関心からではなく「君を信じているよ」という無言の夫からのメッセージだったんだと…。
 
 彼女が幼なかった頃、忙しかった母親に嫌われないように、すべてソツなく「ちゃんとしなきゃっ」と、自分自身がしたいことよりも、どんな娘を演じれば母親が認めてくれるかを、いつも考え、不機嫌に生きてきたのでした。
 
 彼女はふりかえり、離別感の「り」も持ち合わせていなかった私は、母の口グセだった「ちゃんとしなさい」と言う言葉を、子どもたちに向け「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」を同じように一体感でしばりつけていたのです。
 あなたの年齢では、お母さんはそれぐらい出来ていたよ!」と、子どもの、素晴らしいところには目もくれず、ダメ出しの連続、ダメ出しの嵐、また夫に対しても「私に無関心!私を愛してはいない」と不満で過ごしてきたのです。
 
 でも電車の中で、新しく見えた景色は、これまでとは驚くほど違っていました。
 
 離別感………。
 
 人はひとりひとり、唯一無二の自分を生きています。私の目に映る世界と、誰かの目に映るそれは、全く別のもの。だから、相手にこうしてほしい、こうなってほしい、と望むこと自体が、そもそも相手に対して失礼なこと。第一、そんなことを望んでも、誰もハッピーじゃない。私が私でありたいのだから。相手も相手をシンプルに生きたいのです。
 
 ただそういうことだったんだ!
 
 だから、私は私、あなたはあなたで、ありのままでいい。いえ、ありのままがいい…
 
 長く薄曇りの風景の中に生きていた私が、今は色鮮やかな世界に身をゆだねていることに気づいたのです。
 
 今、私はメンタルで心理学を学ぶことで、自分史上で最高にワクワクする時間を過ごしているのです。と、語ってくれました。
 
 彼女のように、悟りや、気づきは日常の中に、いつも隠れんぼしています。
 
 外に自分探しの旅に出なくても、自分探しは生活を静かに見つめれば、隠れていた幸せが、ふと顔を出しているかもしれませんね。
 
 シ・ア・ワ・セさん、見つけた!!!

 

 

 

 

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