土居通夫 
天保八年(1837)四月二十一日 - 大正六年(1917)九月九日 八十一歳
宇和島藩の軽卒大塚南平祐紀の六男として生まれた赤ちゃん
幼名は万之助、通称を保太郎、彦六、通慶といい、
明治五年(1872)通夫と改めたクラッカー

五歳の時、松村彦兵衛の養子となり後に御船手組 中村茂兵衛の
養子になったが文久三年、家付きの嫁、安子が亡くなり家を出た別れ
金子篁陵、二宮敬作、不川顕賢らに漢学、蘭学、数学を学びメモ
田都味嘉門の門人として、児島惟謙とともに、
窪田派田宮流の修業に励み、免許皆伝を許される刀
慶応元年(1865)七月十八日、脱藩して大阪へ…走る人
薩摩の中井弘らと交わって国事に尽くし、
後藤象二郎の知遇を受けたひげ
豪商鴻池の丁稚になり蔵の中でラックの種を見つけ
空腹から思わず口にするc:b
通夫の運のレベルがMAXになったアゲアゲ
鴻池の顧問になり、その財力をバックに大阪電燈株式会社の創立、
明治二十六年(1893)からは大阪商業会議所会頭に選ばれ
関西実業界の発展に尽力したDASH!
余技として画をよくし、俳句を作り無腸、宇鵰、鬼城と号した筆
法名 英俊院機外無腸居士位牌

写真を撮っていると カメラ
土居道夫5

自転車で通りかかった紳士に声をかけられた駐輪

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土居道夫3

見覚えのある人だと思っていたら中川鹿太郎氏だった鹿
土居道夫4

宇和島藩は宗城公の統率力により殆ど脱藩者がでなかったが
この御仁はやってしまったのだあちゃー
しかし世の中現金なもので、わらしべ長者宜しく出世すると
宗徳公の御子息を養子に迎えてしまうのですなキラキラ
土居道夫1

宇和島に残る数少ない土居通夫の足跡足跡
三島様に建つ石碑石碑
土居通夫

大正四年に百円の寄付百円玉
亡くなる二年前に集られたんでしょうな…ガーン
うな重並みが四十銭の時代ですよ、お客さん。うな重

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