あの日あのときあれから | MY LIFE AS A PIG

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山と農業と旅を愛するAkihisaのブログです。
高崎高校→北海道大学農学部→銀行員(札幌・鹿児島・福岡・US)→旅人(日本縦断・世界一周)→大分大学医学部(編入)→明日は何処…
大分朝読書コミュニティBunDoku主宰/NPO法人NICE GWCコーディネーター/財務経営アドバイザー

2001年9月11日(火)、自分は17歳だった。

当時は高校2年生。
その日も普通に学校に行って、放課後は塾の自習室に行って、夜帰ったら母親が「テレビテレビ!」と慌てていて…。

チラッとテレビに目を移したら、何だかフィクションにしか見えない映像が繰り返し流れてた。

「何これ?映画か何か?」

と思っても、チャンネルはNHK。
何度も何度も繰り返される、飛行機がビルに突っ込む映像。
ビルから噴き出す、煙と炎。

ニュースキャスターが、平静を装ってアナウンスを続ける。

「今、また爆発がありました」

「いま2機目の飛行機が突入したように見えましたが!?」

「信じられないような映像をご覧いただいていますが、これは現実の映像です」


父親が仕事から帰ってテレビを見て、ポツリと呟いた。

「…これは、戦争が起こるな」

親が、家族全員が、こんなに食い入るようにニュースを見ていたのは最初で最後かもしれない。
何が何だかわからないけど、何かとんでもないコトが起こっている、という認識だけはあって…。
テレビを前に、当時はまだ全然知らなかったはずの「世界」という存在が、きっと同じ瞬間に同じ映像を見て凍りついている気配をゾクゾクと感じてた。

その日まで、歴史はすべて教科書に書いてある過去の出来事に過ぎなかったはずなのに。
第二次世界大戦は両親もリアルタイムに知らないくらい過去の歴史で、
中東戦争やベトナム戦争だって自分が生まれる前の出来事で、
ベルリンの壁崩壊やバブル景気も物心つく前だったから、ちゃんと理解したのはやっぱり学校の机上で。

「もうこれから先、世の中が大きく変わるコトなんてないんでしょ?」


なんて思ってたのに。

あの日あのときあれから、世界は180°変わってた。

戦争が、起きた。











2011年3月11日(金)は、福岡で社会人生活4年目が終わろうとしている頃。

ちょうど金融業界はリクルーター面談が始まって、その日も九大の学生・院生と1時間毎に面談をしてた。
午前中から3人目の面談が終わって、「もう全員落とそうかなー」とかシビアな評価をしつつ夕方会社に戻ったら、先輩のKさんが外で電話しようとしてて…。

「お前実家群馬だっけ?電話通じないけど、何とかして家族の安否確認しといたほうがいいよ」

「何のことです?」

「ん?地震だよ地震。えらいことになってるみたいだよ。机戻ってyahooニュースでも確認しな」

「そう言えばさっき安否確認システムの登録メールが来てましたね。訓練じゃなかったんですか」

「バカお前、確かにちょうど今週末訓練するって言ってたけど、今回のはマジ」

「…とりあえず机戻ってパソコン見ます」


案の定電話は通じないので、親と姉にメールを送りつつパソコンを開く。
とりあえずニュースサイトを見る限りでは、そこまでショッキングな映像はまだなくて、被災者も数十人~数百人規模。
そうこうしているうちに親・姉から無事メールが返ってきて、まずは一安心。

ふと気付いて、こんな時こそtwitterだろうとiphoneを開いたら、ものすごい勢いで情報が流れてる。

「あっちの町が丸ごと流された」
「今どこどこに閉じ込められてる」
「どこの集落で何百人が取り残されてる」


テレビにもネットニュースにもまだ載ってない生々しい文字の羅列が、どんどんRTされていく。
茫然と画面を見てたけど、夕方にもう一人学生面談のアポがあったので、一時離脱。

何とか意識を切り替えて面談をしてたら、学生が面談の最後に質問してくる。

「御社は今回の地震に対して、口蹄疫や鳥インフルエンザのときのように、何らかの金融支援を考えているのでしょうか?」

きっと、ちょっと携帯でニュースを拾ったくらいで事の重大さをまだ認識してなかったんだとは思うけど、
就活中なのだからそういう思考をしてしまうのは仕方ないのかもしれないけど、
久しぶりに学生に対してカチンときてしまって、

「支援は当然すると思います。でもそれは、我々が特別に、というのではなく、社会の一員として当然するべきだからするんです」
「まず国が人命第一に動くだろうし、同時にすべての会社・組織がそれぞれの出来る事をしようと、社会全体で被災者を支えようと動くでしょう。でもそれは社会として当たり前のことで、そして今は何よりも人命が第一で、今のタイミングでその後の金融支援について聞くのは不謹慎と言ったら言い過ぎかもしれないけど、考えるべき優先順位と感覚がズレていると思いますよ」


(今思えば、感情的過ぎたと反省しています。あの子には悪いコトをしました…)


会社に戻って、でも仕事はやっぱり手につかなくて、移動中もtwitterを開きながら帰宅。
刻々とタイムライン上を流れる被害情報。
でも同時に、それぞれができるコトをしようと動き出す人々。

「家を開放します!帰れない方、休憩所としてどうぞ!」のツイートの数々。
数多のその位置情報を即座にグーグルマップにピン止めしてって、「随時更新していきます!ご活用ください!」とまとめてはTLに流してくれるエンジニア。
「医師として、被災者の疑問に返答します。@をどうぞ」と名乗り出る人たち。

発生からほんの数時間で、互いに見知らぬ人たちがtwitter上でネットワーク化してどんどん動き出してた。

帰ってもテレビがないからどうしようかと思ってたら、まさかのNHKがUst配信を開始。
普段はテレビなんて全然必要ないけど、この時ばかりは有難かった。
見ても何かできるわけじゃないけど。
繰り返し流される映像に、心が沈むばかりだけど。
でもいつまでも、目が離せない。


翌日も、とにかくtwitterとNHKのUstとyahooニュース。
被害についての情報や映像が整理されてきて、津波被害の大きさを改めて知る。
タイムライン上を流れてきたBBC NEWSの写真が、ひどく印象的だった。

ハッシュタグで各TLを拾い読みする。
被害状況は、その深刻さがどんどん明らかになってってるけど、
でも一方で、「こんなやさしさに出会ったよ!」とか、「世界中からこんなに温かいメッセージが!」ってツイートも溢れてる。
色んなまとめサイトが作られてて、たった一晩で民間の支援体制がかなり整備されてきてる。

できるコトを、できる人が、即実行に移してる。
その実行と情報共有の速度が半端ない。

どんどん世界中から集まってくる#prayforjapanの応援ツイートは、サマーウォーズのクライマックスの、世界中のアカウントが集まってくるあのイメージそのまま。
それが24時間絶え間なく続いてる。

Ust配信を開始するNHKを始めとした各局。
WiFiスポットのフリー提供を始める通信各社。
災害免責を適用しないと発表した生命保険各社。
ヤシマ作戦を広めた、日本が誇るネトヲタたち。
そんな善意が、ひとたびツイートされれば数分以内に何万、何十万という人にRTで拡散されていく。

人間てすごいなぁって、しみじみと思った。
もちろん、明るくなるツイートばかりでないのはわかってるけど。
何よりも津波被害は深刻だったし、その後の原発問題は未だに解決する見込みもないけど。


あの日あのとき、間違いなく日本は「世界の中心」になっていて、
たとえ被災地の現場に住んでいなくても、日本人はその「当事者」になっていて、
日本人の誰もが、何と言うか、自分の国が、自分を構成する大切な一部が壊れてしまう感覚を持ったのだと思う。

あの日あのときあれから、世界も変わったけど、何よりも日本が変わった。
そしてあれから1年が経った今を、自分たちは確かに生きてる。

…向かうべき未来は、まだどこかわからないけれど。



(備忘メモ)
これは不謹慎と言われても仕方のないコトだけれど…。
当時の自分は、あのとき揺れた現場にいられなかったコトにきっと「疎外感」に近いモノを感じていて、翌日以降、福岡でも街の明かりが抑えられて、食料品等の品揃えが少なくなってるのを見たとき、確かに自分も同じ国で同じ状況下にある、苦難を共有しているのだという帰属意識・ある種の安堵感を感じていたコトを、未来の自分のためにここに備忘的に記します。