お久しぶりの間に、2022年となり、さらにクメール正月が明けて、2回も新年を、いや、中華正月を入れると3回も新年をやり過ごしてしまいました。

2年前に一緒にプロジェクトに関わっていた方から2年ぶりにメールをいただき、そこに、このブログを読んでいました、ということが書かれておりうれしかったと同時に自分でも、あ、そうだ、「ましゅうのいろいろ」を長らく放置していた、ということにハッとしてしまったのです。

 

ずっとブログを書いていなかったかと言われたらイナで、エリー学園でも、noteでも書いていました。特にnoteは、2つアカウントがあるので、そこにはわりかし、ごりごりと書いていました。これらを持ちまして「ましゅうのいろいろ」を更新していなかった言い訳としたいと思います。

 

 

 

エリー学園は、もうすぐ在籍して2年になりますが、いいかげん自分なりの区切りをつけないといけないと思っていたので、来月で修了しようと思っています。気持ち的には満了です。大宮エリーさんが学長をつとめるこの学園では、クリエイティブマッスルを鍛えるということがウリになっているのですが、わたしは人に恵まれたというか、面白いマッスルをお持ちの友人たちと出会えました。2年たって、彼らが少しずつ修了して行ったので、わたしも追いつかないと、という思いもありました。2年の間に187本ブログを書いたので、少しはマッスルが鍛えられたんじゃないかと自分を評価している、自分に甘いわたしです。

 

書くという活動は地味ながら、続けておりまして、先日、尊敬する大先輩からこんな言葉を頂戴しました。

「これからの人生、書くことに対して、もっと貪欲になってもいいと思います。練習の期間は終わり。人のために書くことも終わり。自分をもっと売り込んでいきなさい。」

わたしももいい歳なので、これがグサリと刺さったのです。

 

すぐに実現はしないと思いますが、いつか、自分の書いたものが世の中に出せるよう、これまでとは違った努力をしていかなければ、と思ったりしています。という、決意を、久しぶりのここに書かせていただきました。新年に抱いた信念ということで。

2022年寅年が、いろいろちゃんと書ける1年になりますように。

 

おあとがよろしいようで。

 

 

 

ついに、ついに、ついに、戻ってきました。

「カンボジアからエアメールが出せる日」が。

 

戦時中でもないのに、世界のどこにも手紙やハガキが出せないという事態が1年以上続きました。

ぜんぶ、アレのせいなのだけど。

カンボジアでも(わたし的最悪法だと思っている)酒類販売禁止が解かれて以来、学校再開、映画館再開、ジム再開、入国時の隔離日数短縮と、いろいろな規制緩和がされる中、まだか、まだか、と首を長くして待っていたこの日がやってきたのです。

 

カンボジアの68回目の独立記念日である今日を前日に控えた、11月8日(月)、エアメールが再開しました〜。

 

 

うれしくて、うれしくて、うれしい。

 

メールも、LINEも、Twitterも、Instagramも便利だし好きだけど、手紙には手紙にしかない良さが溢れています。

書いて出した後、相手に届くまでのドキドキも、ポストに届くのをまつワクワクも、どんなコミュニケーションツールにも勝ると思っています。

だから、わたしは、(頼まれもしないけど)手紙を書くのです。

 

2017年にプノンペンに来たときからずっと私書箱を借りています。

ただの地味なロッカーに数字が書いてあるだけの箱ですが、わたしにとっては、日本と世界とつながる魔法の箱。

 

また、魔法の箱に日本からの手紙をお迎えできる日が来たことに大いなる歓びを感じているのでした。

さて、お迎えする前に、こちらから出しましょうか。

ということで、今日からしばらくは、ごりごりと、手書きで何かを綴るということが日課に加わりそうです。

 

追伸;

ずっと待っていてくれていた、いや、待てずに船便まで送ってくれていた池袋方面のあなた!

やっと、空に飛ばせます!

え? あ? うぇ? あっと言っている暇もなく、金曜日がやってくるのですが、なんと10月になっているではないですか?

お久しぶりです。サボっていてわけではなく、アメブロを開くことがなかったんです。

少しずつですが、うれしいことに原稿のご依頼をいただきまして、ゴーストライターをしていました。

しょせん、お化けですけどね。それでも、一生文字を綴り続けと思っている者としては、ブログだけじゃなくて、ご依頼をちょうだいするというのはありがたいことです。

 

文字を綴るといえば、論文。

提出が終わって、ディフェンスで発表をして、審査員の方々にありがた〜いコメントをもらって、そして修正。そこまで、なんとか終わりました。

あとは、担当教官の先生の承認を得て、本当の提出をするところまでやったら、大学院の終了。

ここんところ、終わる終わる詐欺みたいなことになっているのですが、これは、本当(だと思っています)。

 

 

しかしですね。そこは一筋縄でいかないところで。

先生が、ご家庭の事情で田舎に帰ってしまったのでしばらく会えなくなって、大学にお願いして締め切りを伸ばしていただいたというオチ付きです。

 

ま、これくらいが、わたしらしいと言えば、らしいのかも。それから、コーディネーターの教授に対して「先生が田舎に帰っちゃったんで、論文提出の締め切りをのばしてもらえませんか〜?」という問い合わせてみたことろ、Fine, take your time!

それだけで済んでしまうところが、真面目に考えすぎると心拍数がすぐ上がってしまうわたしには、合っているんですよね。

 

田舎に行ってしまった先生とオンラインでお話ししていたとき、外人だし、クメール語でコミュニケーションできないし、しかも最高齢の学生ということもあって、こんなわたしを受け入れてご指導くださったことに、ようやくちゃんと謝辞を伝えることができました。すると先生は、「ゆうかを学生としてプノンペン大学に迎えることができてよかった」そう最後におっしゃってくださったんです。

わたしは、この一言に、2年半のすべてが報われた、そんな気持ちになりました。

 

さて、まだ終わってはいないので、最後まで、悪あがきをしまっす。

 

おあとがよろしいようで。

 

久しぶりにカンボジアの教育のお話を。

プノンペン大学にまつわるエトセトラについては、こちらのnoteにまとめていますが、ちょっとここでもお話がしたくなったので。

 

 

カンボジアでは、90%以上が小学校に入学しています。

けれど、卒業するのが半分程度だって話し。

「うっそーん」

という人も多いです。カンボジアの教育省が示す統計では、そういうことになっています。

都市部だと70%を越えてはいますが。

 

小学校を卒業した子たちが中学校に入ると、また難関がやってくるのです。

3年間を無事終えられるかどうか、という。

結局中学を完全に修了できるのが40%ちょっと、高校に至っては20%代とのこと。

この理由や背景を語ると長くなるので、ここでは割愛しますが。

 

インターナショナルスクールが林立し、大学も何十も存在しているプノンペンにいると、この統計になかなか実感が湧きません。

しかし、地方の農村部に行くと、小学校しかない村は多々あって、下宿する場所があれば中学にいけるけれど、現金収入が乏しい家庭では、それは無理のようです。

ましてや高校となると、家から通えるというのは、よほど恵まれた立地の家庭だけでしょう。

日本のように公共交通機関のない、また、田舎の道路事情を考えれば、遠くまで通うという選択肢は余程のことだと思います。

親戚を頼って、中学や高校からプノンペンに来る学生もいますが、特別に恵まれている境遇に感じます。

 

さて、わたしたちの大学院の話し。

わたしは、王立プノンペン大学の開発学のマスターコースに2年半前の2019年2月に入りました。

スタート時のクラスメイトは、24名で、外国人は、わたしの他、中国人3名、スイス人1名、インド人1名がいました。

スイス人は、オリエンの後、入学要件が満たなかったという凡ミスが発覚し、すぐにいなくなりました(合格通知出しちゃってんの! )。インド人は、ラオスに就職をしてしまい、プノンペンから去りました。

 

2年の間に、海外留学に合格、転職、大学院2つ並行が無理、結婚、仕事が多忙、子育てが多忙、会社が倒産、などそれぞれの事情で、少しずついなくなりました。

去年の12月、2年間のすべての学科が修了するとき、私たちは13名になっていました。最後の半年はずっとオンラインで、つらかったなー。

それから半年間、修士論文を書くというだけの時間、学生と担当の教授間でのメールやオンラインだけのやりとりが続きました。

 

何度も締め切りが延び、ついにやってきた修士論文提出締め切り日。

2021年8月に論文を提出したのは、7名でした。

 

7名全員が無事に審査を通過して卒業できたとして、修了率は30%に満たないことになります。

 

カンボジアでのドロップアウトの率が高いという現実を、自分の身を持って実感したのでした。

一緒に修了できなかった、17名のひとりひとりの顔が浮かび、事情も把握しています。もちろん、中にはポジティブな退学もいます。けれど、カフェで肩を組んでわいわい写真を撮ったそのまんま、みんなで修了の写真も撮れるのかなぁと思っていたので、寂しさが募ります。

 

自分以外の6名のクラスメイトを、わたしはとても誇りに思います。

難しい仕事をしているメンバーもいれば、子育てをしながら勉強しているメンバーもいて、わたしは中ではいちばんのお気楽かもしれません。

来週のディフェンスが終わったら、残ったメンバーで、慰労しあいたいなと思いました。

 

ソーシャルディスタンスなので、直接会えないかもしれないけれど。

 

 

 

1週間くらい前から、どうも怪しい、と思っていました。

わたしのスクーターのエンジンの話しです。

エンジンがかかるのに1分を要するようになり、一昨日あたりから3分かかるスロースターター、今朝、ついに、かかること自体を拒否しやがりました。

キックしても、ダメ。むむむでしょう。

 

それを見ていたアパートの守衛さんが、斜め前に空気入れを生業としているおっちゃんがいるのですが、その人に見てもらえというのです。

おっちゃん、空気だけを入れているかと思いきや、小屋の中に小さな工具箱を持っていて、バイクを何やらガチャガチャしはじめました。

まず確認したのがガソリンでしたけどね、ガス欠じゃねーし!

 

朝といっても太陽が昇れば立派に暑いプノンペン。おっちゃんのガチャガチャを待っているだけで、汗、汗、汗。

30分近く待ったでしょうか。おっちゃん「これはバッテリーの問題だから、イオンの向かいの修理屋に行け」と。

このくらいのクメール語はなんとか理解でき、とりあえずお礼を支払い、やむなく修理屋へGOすることにしました。

 

でも、動かないバイクで、どうやって。

はい、引いてです。がんとして動かない秋田犬を引きずるくらいのホンダTodayを伴って、10分くらいの道のりを修理屋へ向かいました。

暑いです、非常に暑いです。

 

青いTシャツを着て赤いバイクを引きずっている黒いおかっぱが、哀れに見えたんでしょうね。

まず、カンボジア人の二人乗りカップルが止まって「大丈夫ですか? 何かトラブルですか?」みたいな声をかけてくれました。クメール語だから、しょうじき、はっきりはわかっていませんが、「わたし、場所、知ってる」というたどたどしいクメール語と、「オッケー、オッケー」って言ってたら、笑顔をひとつくれて、走り去りました。

続いて、中国人の男性。シャーっと走りすぎたのに、くるっと引き返してきて、前方を指差しながら、「ほにょにょにょおおおはははにゃにゃ」と言っています。中国語で、おそらく、「少し行ったところにバイクの修理屋があるから」と教えてくれたんだと思います。わたし、完全に中国人と思われたあるよ。「I know the place, thank you」中国語がわからないので、とりあえず英語で礼を述べると、Good!  と親指を立てて、走り去りました。

 

うげー、うげー、って思いながら動かない秋田犬を引いていたので、彼らのやさしさに、ちょっと泣きそうになりました。

やさしいな。

そういえば、以前、カンボジア人の友だちとふたりで、プノンペン大学まで歩くチャレンジをした際、途中で動かないバイクを引いていた女性がいたのですが、その友だちは声をかけて、ささっとバイクを引くのを代わってあげたってことがありました。

あのときは、わたしの友だちはやさしいな〜って思ったのだけど、そういう人がいっぱいいるんですね。

 

青いTシャツの哀れなおかっぱは、修理屋にたどり着くと、身振り手振りで、エンジンかからなーい、キックもダメーと伝え、修理が終わるまで座って待たせてもらいました。

 

 

修理工のリーダーらしき人がバッテリーを交換している間、もう一人の若いスタッフが、「オイルも変えた方がいい、3ドルのと5ドルのがあるけどどっちにする?」と流暢な英語で聞いてきました。金の斧か銀の斧かってことか。

ここまで引きずった自分に褒美を与えるかのように金の斧でお願いをしてみました。1缶5ドルのオイル、ビールなら10缶飲めるじゃん、なんて思いながら。

金の斧のお兄さん、「Are you Japanese?」からの「How old are you?」。ほい、きた、いつものやつ。すぐ年齢を聞くカンボジア人。

まずは、中国人ではなく日本人と認識したことは、褒めてつかわそう。

そして、年齢を伝えると、うわー、と軽く跳ねて、続いて「20代と思ったよ」と。

うへへへ、マスクをしているので顔は20%くらいしか見えてないのはわかっていますが、おかっぱは有頂天になりました。もう一生マスク外せないですね。

 

交換のため流し出したオイルは、どろっどろの真っ黒で、まるで、悪魔の汚れた血を洗い流したかのよう。ここに、ハンサムな吸血鬼が好みそうな新鮮な若者の血が注がれていきました。

 

 

 

バッテリーとオイルを交換したことで、すっかりご機嫌よくなったのは、スクーターだけではなく、わたしもだったようです。

「ディスカウントするから、スタンドもつけとく?」その言葉に間髪入れずにYes! 朝からかれこれ30ドルもスクーターの修理に貢いでしまいました。

 

おあとがよろしいようで。

 

 

今年の上半期に2つ、これはやりたいと思ったことがあります。

ひとつは、もうこれはどうしてもやらねばならぬことなのですが、論文を完成させるということ。

もうひとつは、銀歯を全部セラミックの白い歯にしたいということ。

 

論文に関しては、無念にも、当初の締め切りである6月30日までに完成できませんした。懺悔。

しかしプノンペン大学から連絡があり、”締め切りは1ヶ月延ばして7月末”ってことになったので、よし。

 

銀歯に関しては、歯医者さんに思い切って行ったのが6月だったので、上半期ギリギリでスタート。

ご丁寧に6本もまぁ、ギンギラギンと抱えておりました銀歯。「全部、ジルコニアセラミックで入れ直してください!」そんなブルジョアみたいなことを、やってみせました。

大金はないけど、小金くらいは貯まったんで、日本に帰れないから渡航費用を使ってやれ! ってなもんで。

 

6本も、壊して、型とって、歯を作って、入れて、なんてしていたら、半年もかかりませんか?

歯列矯正に悠長に3年3ヶ月もかけたわたしとしたら、歯に時間がかかるのは当たり前のこと、だったんですが。

カンボジアの歯医者さん、レントゲン見ながらうーーーんって固まっちゃって、何やらぐるぐる計算しているみたいだったのですが、「1ヶ月くらいいただいてもいいですか? 」だって。

え? それでいいの? 6本ですよ!? 

 

これがね、まず麻酔をして、1回で2本の銀歯をドリルでぶっ壊すんですよ、ガッツンガッツンと。虫歯じゃないから治療がいらないってのもありますが、そこから型とって、仮歯入れて、翌週にはセラミックの白い歯が2本仕上がるってわけ。

ものすごいスピード感。

治療というか、むしろ、工事。ビルの建て替え工事。

 

(Before After にしたかったけど、銀歯の写真撮り忘れ手た)

 

日本で歯医者さんに通っていたころは、壊して終わり、磨いて終わり、ほんの15分、30分の治療を小分けして通っていた気がします。

思い切って、こちらの歯医者さんに連絡してみてよかったです。あ、ちなみに日本人のデンティストです。

 

なお、気になるお値段ですが、日本でセラミックの歯を作る場合の半額くらいですかね。

それでもかなりお高い買い物ではありますが、カメラの前で、ガハガハ笑っっても銀歯が見えないという件に関しては、プライスレスなので、コツコツ働いたぶん、他に特に買い物なるものをしていないぶん、ドーンと支払ってやります。

 

大嫌いな歯医者さんに、こんなにも積極的に通っている自分に驚いていたりもします。

大人ですもんね。だいぶ。

 

おあとがよろしいようで。

世界が救われるのは、もはやワクチンしかない、みたいになって来ましたね。

ついに、受けてしまいました。カンボジアで。

 

ワクチンは突然やって来たのです。

火曜の午後、大家さんからメッセージが届き、「明日の朝7時半にワクチンだから会場に行ってね」と。

明日っすか?

こうなると、覚悟も何もなく、自分の体の中に、中国製のSinovacを入れ込む日が翌日に来てしまったというわけです。

 

カンボジアでは、特にプノンペンは都知事が「プノンペンは100%接種しちゃうんだから!」と宣言してしまった手前、急速にワクチンキャンペーンが広がっています。

地区ごとに家主が区長さんのところに申請をして、近隣の小学校を会場に大接種大会が繰り広げられています。

わたしが住んでいるアパートも、大家さんがまとめて申請してくれていたので、接種に至りました。

 

当日は、混むだろうと思ったので、7時15分には行ったのに、すでに、大行列。

受け取った整理番号は、285番でした。

1番から呼ばれて285番までくるのに1時間半。この番号も、クメール語で呼ばれるから、耳に神経を集中していなければならないのです。

「 レイッ ピー ピーロイパエトサップ タウ ピーロイカウサップ」(番号280から290まで)ってな感じで。

 

 

説明してくれるのも誘導も、全部クメール語。外人にやさしくない運営でしたが、ここは流れで。

見様見真似で前に進んでいくと、あっという間に、右腕に長い針がぶっ刺されていたのでした。

(終わってみて、よくひとりで頑張ったなと、ちょっとだけ自分を褒めました)

 

日本という国が、へぇそんな中国製のワクチンは認めませんけどねー、っていう感じなので、わたしのワクチン接種は、鼻で笑われるかもしれませんが、笑。カンボジアにいる精一杯がこれなので、この国では堂々と、暮らしていこうと思っています。

 

早く、地方に行きたいな〜。

 

なお、副反応なるものは、皆無。

接種後海産物を食べてはいけないなんて、言われた翌日の昨日、うっかり海鮮チヂミを食べちゃったんですが。

すこぶる元気です!

わたしが働くオフィスには、猫が住み着いています。

白黒ちゃんが1匹。この子ったら、まったく警戒せず、人間に慣れきっていて。

毎日朝晩、通勤時にバイクを止めている駐車場で会っていたのだけど。

 


あるとき、おなかがぽっこりになっていて、妊娠が判明。

それからはいつ生まれるのかと、勝手にカウントダウンしていたわたし。

ある期間、ぜんぜん見かけなくなりました。

カンボジア人のスタッフ曰く、「生んでますね、これは」。

 


しばらく、ぽよんぽよんのおなかで、相変わらずのソロ活動だった白黒ちゃんですが、あるとき、発見してしまいました。

こいつらを。

 


もう、愛くるしくて、愛くるしくて。

いつか、下に降りてきておくれ~、なでさせておくれ~。

と思っていたところで、ロックダウン! 駐車場はおろか、ビルにも近づけないことまる2週間。

 

人間がいない間に、駐車場を我が物顔で遊び場にしていたらしく。

ロックダウン明けには、大きく育っておりました。

駐車場に止めているバイクの上でいつも昼寝をしている母親を見習って、子猫たちときたら、もう覚えています。

 



そして、今日!

わたしと子猫たちの距離がついに縮まった気がしたのです。

わたしを警戒して、いったん離れるんだけど、またそろりそろりと近づいてきたり。

わたしがなでている母猫の白黒ちゃんにくっついてきたり。

 



ふふふふふ。

子猫らをなでなでできる日も、そう遠くはないとほくそ笑んでいる、わたしであります。

 

猫を好きかと言われれば、猫バカレベルで大好きです。

じゃあなぜ飼っていないのかと聞かれれば、一言ではご説明できません。

でもね、思うんですけど、「猫好き」と「猫を飼っていない」は決して相反する言葉ではないと。

 


猫の愛で方だって、人それぞれですよね。

 

おあとがよろしいようで。

 

 

奇しくもクメール正月元旦にロックダウンとなったプノンペン。

3日目以降急に厳格化され、ウォーキングなどの運動や、同じ町内からの移動が一切制限されました。

その後公共の市場もすべて閉鎖され、庶民の台所も閉じられました。

しょうがないので、家でこもって仕事していたのですが、2週間たって、新たな動きが!

 

プノンペン都内が、赤、オレンジ、黄色の三色に塗られたのです。

 

 

赤は、超ロックダウン。

家から出ることも、買い物すら禁止され、政府が配給するしょっぱいものを食べて暮らさなければならない地区。

そんでもって政府からの配給がひどい! 米、醤油、魚醤、魚の缶詰、あとカップラーメン。ね、全部しょっぱいんです。

せめて、野菜を届けてあげてほしい。このままでは、アフターコロナはみんな高血圧ですよぉ。

オレンジは、なかなかロックダウン。

買い物は週に3回まで行けるけど、ビジネス活動は禁止。

黄色は、そこそこロックダウン。黄色以外の地区へはいけないけど、黄色ないならビジネス活動がOK、買い物もOK、散歩もOK。

 

これが今日から適用になりましてん。

わたしの家、黄色でしたー! そして、オフィスも黄色。

 

わたしが住んでいるところは、日本的に言うと、プノンペン都チャムカモン区トンレバサック町。

オフィスがあるのは、バイクで3分とかからないすぐそこなんですが、バンケンコン区バンケンコン町1。

隣どうしの町だけど、これまで境目には、ベルリンの壁のごとく柵とロープが張ってあって、「てやんでぇ、通るんじゃねーぞ」って顔の警官たちが見張っていたのでした。

 

それがですね。

黄色になった途端、今朝から、柵も、ロープも取っ払われて、これはまるで1989年のベルリンの壁崩壊です!(という気分)

 

 

柵がなく、通行できるだけで、そして、人々がまた外に出て歩いていたり、子どもが自転車にのって笑っているのを見ただけで、涙が出そうになりました。

ただの、ふつうの朝なのに。

 

たった2週間だけど、閉じこもったおかげで、当たり前の日常のすばらしさを噛みしめている、4月29日の朝です。

今日は、日本は昭和の日。昭和から平成になったのも、1989年! あら!

 

来るかなぁと思ってましたが、来ました、ついに、ロックダウン。

2/20事案と呼ばれるコミュニティ感染以来、拡大の一途であったカンボジアの感染状況。


まず、20時以降夜間外出禁止令からはじまり、酒類販売禁止•飲食店内飲食禁止、州間移動禁止と、アレダメコレダメ政策を即日で施行してきたカンボジア政府ですが、今日からロックダウンに至ってしまいました。


奇しくもクメール正月元旦の発令でした。

首相から「日付が変わる0時からロックダウンするよ」アナウンスが出たのが18時半頃で、20時には外出禁止となる。

って、どうなると思います?


想像は容易。

備蓄の買い出しでスーパーや市場が大混乱となっていました。SNSの写真を見ると、感染対策としての発令をきっかけに、みんなが密状態というね。

あれで、感染起きてるんじゃないかなぁ。


結果的に、ロックダウンではあるけれど、週に3回まで買い物に行っていいとなっていて、夜に慌てて買い物しなくてよかったのですが。

それ、先に発表せや! ってみんな思ったはず。


わたしは、と言うと。

幸いアパートの隣りが商店なので、水を一箱買って来ました。いつも水とビールを買っている顔馴染みなので、お店の父さんが運んでくれました。

水さえあれば、なんとかなる、わたしたちのボディはほぼ水なんでしょ、ってなもんで。


不明瞭なまま、混乱とともにスタートしたプノンペンのロックダウン。

寝て起きたらロックダウンだったぜ、そんな人もいるのでは? というくらい急極まりなし。

でもこれ、いわゆるカンボジアあるあるなので、またそれな! って感じの市民たちです。


まるでドリフみたいなことが起こるカンボジアは、暮らしていて全然飽きない国です。

いい意味かよくない意味かは、が想像にお任せするとして。


完全に外に出てはいけないわけでなく、同じ地区内は移動していいみたいなので、夕方ウォーキングに出ました。

住所が変わる境目には、紐が張ってありました。

ロープではなく。紐ね。



誰かが監視しているワケではないので、ちょっとまたがせていただいて、独立記念党付近をぐるぐるして汗をかいてきました。


どうかウォーキングの自由は奪わないでほしいと祈りつつ、ロックダウン中は夜22時に寝ることにします。



明日も平和でありますように。