この4月10日の朝日新聞、オピニオンの欄に、「めくるめく辞書の世界」と題して、学者芸人 サンキュータツオさんがインタビューされていました。


 「新明解は初版で、ほかの辞書を『(先行書から適当に言葉を選んだだけの)パッチワーク』で『しょせん芋辞書の域を出ない』と酷評しています」と喋っています。


 それを読んで、はっと気づきました。


 以前、このブログで「親亀」を取り上げましたが、もう一つ『新明解』は他の辞書のことを「芋辞書」と言っていたなと。


 芋辞書=大学院の学生などに下請けさせ、先行書の切り貼りででっち上げた、ちゃちな辞書(薯・藷とも書く)(『新明解国語辞典』初版1972年)


 この「芋辞書」も、「親亀」の項と同様、第3版から姿を消します。


 立項されなくなったのはその語が使われなくなったのですが、辞書の悪口が通用しなくなったのでしょうか。それとも、『新明解』が方針を変えたのでしょうか。


 『新明解』は当初、気負って、かなり主観的な説明をいたしました。それが話題を呼んだことは間違いありません。(現在シェア36%だそうですが、これは驚きです)


 しかし、だんだん、矛先が鈍ってきていること(他の辞書と変わらなくなっていること)は明らかです。つまらなくなっているのです。もう、特別扱いする必要もないでしょう。


 一例をあげます。


 老婆=年をとり過ぎて、年輪の古さだけが目に立つ婦人。

 老爺=著しく年をとったため、動作に活発さを失い、過去の思い出に生きる男性。


 これが、初版の説明です。随分、勝手な説明ですが、多少的を射ています。「老爺」と呼ばれることが多くなった私など、身につまされる説明です。


 老婆=だれの目にも年をとっていると感じられる女性。

 老爺=年とった男性。老翁。


 これが、最近の版の説明です。ね、面白くも何ともないでしょう。


 『新明解国語辞典』も、「老爺」になったということでしょうか。


 この朝日新聞のインタビュー記事の見出しは「めくるめく辞書の世界」です。


 この「めくるめく」を辞書で引いてご覧なさい。立項されていない辞書もあるし、単なる説明、用例を含むものと種々様々です。


 立項されていないのは論外、私は、やはり、せめて、「めくるめくばかりの光の渦」などの用例があるものを手許に置いて使いたいと思っています。


 なお、件(くだん)の記事の副見出しは「編集哲学2大潮流 読み比べ味わってネット化で海外へ」とありました。


 大袈裟過ぎます。小型国語辞書に「編集哲学」などあるはずがない。