雪 三好達治
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
とうとう私の鑑賞を述べなければならなくなりました。
私は、次のような詩の形と比較して考えます。
雪 三好達治
太郎を眠らせ
太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ
次郎の屋根に雪ふりつむ
詩集「測量船」の巻頭には有名な詩、「春の岬」「乳母車」「雪」「甃のうへ」「少年」と並んでいますが、句読点を付した詩はこの「雪」だけです。
これは詩人三好達治にとって散文詩なのです。
そこで、散文詩として、考えるならば、句点(。)でまとまった一センテンスは、まず、それだけで完結されたものとして鑑賞されなくてはなりません。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。」という文の「眠らせ」の主体は、「雪」以外に考えてはならないということだと思います。それ以上のイメージを膨らますことは勝手でしょうが、「雪が」「太郎を眠らせ」ているということを離れての鑑賞の出発はありません。「雪」は音もなく降ります。いや「音のない世界」よりもっと、静寂な世界です。そこで、「太郎」や「次郎」は眠るのです。
また、句点(。)は次のセンテンスと截然と区別されます。
「太郎」と「次郎」は、同じ家に住んではいません。きっと、別々の家に住んでいます。生活程度も、おそらく異なっています。そうした、散文的なあり様のすべてを統一するように、「雪」があるのではないでしょうか。
随分勝手な解釈ですが、句読点の存在から逃れることができない私の鑑賞文です。
どなたか、この句読点の存在に触れた鑑賞文を紹介してください。