1年前に師匠に再会した時に、言われた言葉が頭の中に残っていた。

「肉体(モノ)からエネルギーになって、光になるんですよね♪」

それを聞いたとき、

「??????????????・・・・・・・・・・・・」って、

感じで、何言ってるんだろう、くらいにしか感じなかった。

でも受け容れることが出来なかったこの言葉も、

しっかりと受け止めてはいた。

だから、それがずっと残ってたんだけど。


よーやくわかった。


この数年間起こってきたこと。

この2ヶ月間の流れ、そして動き、そこからの気づき。

はっきりと「光」を認識することが出来た。

ひょっとしたら自分の人生の中で、

最も大きな「パラダイム・シフト」が起きたかもしれない。

そのくらいこの2ヶ月は大きいなぁ、そしてこの一週間も。


言葉じゃない、知識でもない、僕の場合は人から何を言われようが、

自分の中で納得できないと受け容れることは出来ない。

逆に言えば、自分の中で「認識」さえできれば、

もう大丈夫や。


2ヶ月前に言われた言葉、

「自信」

「楽天」

「希望」

がないと言われた。

その時の僕の認識は、

「自信がない?」・・・・・「いいえ、自信満々ですけど」

「楽天的でない?」・・・・「僕より楽天的な人いるんですか?」

「希望がない?」・・・・・「『喜』望じゃないからですかね?」

と全く思い当たる節がなく、さすがに間違ってるんじゃないの、

と思ったけど、それは思考や意識でそう感じていただけであって、

僕の潜在意識の設定は、

「変わることに対する恐れがあり、不安を感じて、自信がなく、希望を持てていなかった」

正直、自分のことを自分自身全くわかっていなかったことに対して

驚いた。

その時、「エネルギー」ではなく、「光」へ変わる必要があるんだ。

とハッキリ認識は出来た。

ただ「光」というものがどんなものなのか自分なりにイメージ

出来なかったため、その時はその必要性を感じて、

覚悟が持てただけだった。

それから数週間、

「光」の認識を持つために数々の試練?が与えられた(笑)

ロレックスの時計をなくしたり、

研修で失敗したり、

ここには書けないようなトラブルも・・・・

でも、それらがなぜ起こったのかわかるような気がする。


そして、この一週間で完全にわかった気がする。

(気がするだけかもしれないけど・・・笑)

でも「光」を見つけたことだけは確かだ。

数日前、僕のミニ師匠のYちゃんから、

光の創り方?を教わった。

作り方と言うよりは、自分の中にある「光」を

認識する方法と言うんだろうか、その概念が認識できただけで、

おそらく僕のコンサルティングは劇的に変化するんじゃないだろうか。

と言うよりすでに変わってしまった。

これ読んでるクライアントは、

「とうとう水谷は頭がおかしくなったか、新興宗教にでも入ってしまったか?」

と思われるかもしれないけど、

いたって普通ですので御心配なく♪



ただ、いままで、不安を抱えているので見れなかったものが、

観れるようになっただけなんだろう。

みる

見る

視る

診る

看る

観る

充る

満る

それが観れると全ての人の持つ光が信じられるようになり、

可能性が確信できた。

自分の中にある「光」を認識することが出来ない人に、

光を当て、闇を照らすことによって、その人の持ってる光を

包み込むことで、可能性を開花することが出来る。


「こころでみなくちゃ、ものごとはよく見えない。

肝心なことは、眼に見えないんだよ。」
(星の王子さまより)

だからこそ、心で観る必要がある。


みんな自分の中に「光」を持っているのに、

殆どの人が見え「ない」

それを感じられる「ない」

だから信じることが出来「ない」

恐れ、不安、自信喪失、思考停止、行動停止、現実逃避、あきらめ、萎縮し

影を作り、

不満を持ち、怒り、不信感を抱き、被害者意識を持って心に陰を作り、

そんな自分が嫌で、不運感を持ち他責化し、自分を責め、

自己否定して、自分の人生を翳らせながら、

人を恨み、猜疑心を持ち、復讐心を抱いて、人を怨む。

これで心に闇が出来る。

この闇があるから自分の中の光を「観る」ことができない。

「光」を感じることが出来ない。

自分の「光」としての可能性を信じることが出来ない。


でも誰かがその可能性を信じることで、

光を信じて、闇を照らす光を当たることで、

もしそれを認識することが出来たら、

それを感じることが出来たら、

きっと変わることが出来るだろう。

でもそれは、「変わる」わけではなく、

本来の自分を取り戻すだけなんだけど。

だから、僕が変えた訳ではない。

その人が本来も姿を取り戻すだけだ。



「光を当ててくれて有り難う御座います」


プレジャー・ファクトリーに参加しているHさんからの言葉で気がついた。

今までの自分はエネルギーで人を変えようとしていたことに。

だから上手くいかなかったんだ。

この人を変えてやろう、

なんとかしてやろう、

おしえてやろう、

ということ自体がいくら愛があっても相手を否定していることに変わりはない。


変わる必要はない。

すでに必要なものは全て「ある」

今の自分を受け容れることで、

自分自身を認めてあげることが大切だ。

ただ、今の立っている自分は誰のお陰で今があるのか。

生まれたから、一人で今まで育ってきた人は誰もいないはずだ。


どんな親だろうが、その人たちがいたからこそ今の自分がある。

その今ある「命」を感じられれば、今「ある」ことを認識できる。

生きてる人には命が「ある」はずだ。


その命を授かり、この世に生まれた来た時に、

そこに親の「愛」は必ずあったはずだ。

そして祝福され、喜ばれ、笑顔があったはずだ。

嬉しい、楽しい、喜び、笑い、があったはずだ。

さらに成長し、努力して頑張り、やりがいを感じることがあったはずだ。

感謝し、報恩の心を持って貢献し、

志を持ち使命感を持って行動すれば、

自分自身に与えられた「愛」のテーマ、

「親子愛」

「家族愛」

「友人愛」(友愛)

「同志愛」

「隣人愛」

「慈愛」

「人類愛」(博愛)

といった役割に気づくはずだ。

それに気づけば、「喜び合い」の人生を送ることが出来る。

それが「命を輝かせる」人生だ。

その命をみんな与えられている。

光を当たることで輝かせることも出来る。

ありがとうの反対は当たり前


感謝がないと「光」が当たらない。

だから「当たる前」

命を与えていただいたことに感謝することが出来れば、

光を見出しそれを輝かせる人生を歩むことが出来る。



「数ヶ月前まで生きたいという気持ちがありませんでした」

そんなことを言ってたやつが、

今身体が動かなくなった人を笑顔にしている。

コンプレックスの塊だった人が、

病気で苦しみ、劣等感・罪悪感・否定感にさいなまれている人に、

「喜望」を与えている。

超ネガティブで、自己否定していた人が、

認知症で自分を見失っている人に喜びを与えている。

「こんなことまで、人の世話になるようになったのか

情けなくて、死にたい」

と言ってる人たちに、

「今歩けたじゃないですか」

「これできましたよね」

「これうれしかったですよ」

なんて、「ARUセッション」しながら喜ばれている。


僕がやりたかった、

プレジャー・ファクトリーがそこに確かにあった。

僕のやりたかった夢を実現してくれたのは、僕自身ではなく、

プロジェクトに参加しているメンバー達だった。



「自殺者3万人を減らしたい」

「ウツ100万人を減らしたい」


その想いからスタートしたプロジェクトだけど、

「ビヨンセ?」

「スマイル?」

じゃなくて、S社のみんながそれぞれの、

一つ一つの小さな取組で、大きな可能性を開いてくれた。

これで行ける。

そう確信できた。

大きなストーリーがいよいよ動き始めた感じ。



1年前から始まった、もっと前から始まってたのかもしれないけど、

これから起こることが楽しみで仕方ない。

その可能性を信じることを教えてくれた、

プレジャー・ファクトリーのメンバー

S社のスタッフ、

師匠とその愉快な仲間達、

そして「もとないない夫婦」(笑)

今は「光のある夫婦」のお二人に愛と感謝を込めて♪





$経営コンサルタント・中小企業診断士 水谷宗弘のブログ