174 侠客三人 | 無無明録

無無明録

書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

 柳川熊吉は、幕末の侠客。江戸浅草の料亭の息子で地元の顔役だったそうだが、五稜郭築城のときに人足を率いて蝦夷地にわたり、築城を補佐した後、箱館で江戸流の柳川鍋を商売にし、いろんな場で売り出して、ここでもたちまち土地の顔役になった。

 箱館戦争に敗北して賊軍とされた旧幕府軍の遺体が埋葬を許されず、無残にも市中に放置されているのだが、誰もが後難を恐れて手出しができない。




しかし、柳川熊吉は、この惨状を看過できず、実行寺住職や有志とともに遺体を回収し埋葬する。そして、後に旧幕府軍の遺体を改葬して、箱館山に「碧血碑」(へっけつひ)を建立した。碧血碑の由来は「義に殉じた志士の血は、三年経つと碧に変わる」という中国の故事によるそうだ。






江戸神田で大きな飾職問屋と人足宿をやっていた「江戸の三幸親分」こと、三河屋幸三郎は、上野の山に放置されている彰義隊の遺体の一人一人に、雨でずぶぬれになりながら、読経を捧げている僧侶を見かけて声をかけた。「坊さん、官に逆らった者の供養をして、お前さん、お咎めが怖くはねえのか」すると、「私は、幕軍を供養しているのではなく、仏を供養しているのだ」と答えたのは、後に円通寺ニ十三世となる仏磨和尚。


禅坊主で多少の度胸は座っていると思ってはいたが、ずばりと仏磨が言ってのけたのがひどく気に入った三幸親分、「どうだい、坊さん、二人で葬ってやろうじゃねえか」

その日のうちから三幸の家の人足が上野の山に集まり、戦死者を三日がかりで火葬にし、遺骨を円通寺に葬ったそうだ。




榎本武揚が軍艦を率いて、新政府を作ろうと箱館に向かう途中、台風に遭い、咸臨丸だけが流され清水港に入り、それに政府軍が斬り込みをかけ、乗組員全員を斬殺してしまいます。港の中には無残な遺体が浮いているばかりで、漁師も網を下ろすことができないし、かといって勝手に死体を片づけると、後でどんな災難が降りかかるか分からない。

皆困り果てているときに、「べら棒め、仏になりゃあ幕軍も官軍もあるものか」と啖呵を切って、遺体を回収し、埋葬して「壮士の墓」を建てたのは、清水次郎長こと、山本長五郎。そして、この「壮士の墓」の字を揮ごうしたのは、山岡鉄舟だった。




あの時代にこんなことをやってのけるには、相当な度胸がなければできないことだったろうが、勿論度胸だけではできないだろう。この時代の親分と呼ばれる人は、義侠心があるのは勿論、礼節を知り、人情を知る、そんな男たちだったのではないのかな。

次郎長は、晩年、若いころとはガラリと変わり、切った張ったの稼業をしてきた男とは思えなかったほど穏やかな生活をしていたと云う。

幕閣小笠原壱岐守の子息小笠原長生さん(後の海軍中将)が、少尉か中尉の若い時分、清水港に軍艦が停泊するたびに、次郎長をよく訪ねたそうだ。次郎長は、いつも着物の懐の中にどっさりと菓子や飴玉を入れて、近所の子供たちに配っては、子供たちの笑顔を好々爺のように眺めていたそうで、これを長生さん、「次郎長は 袋を持たぬ 布袋(ほてい)かな」と詠んだら、次郎長は、破顔一笑、大いに喜んだそうだ。

で、長生さん、ある時、次郎長に聞いてみたそうだ。「親分は、今までに何度となく斬り合いをしてきて、今こうして生きている。生死を分ける勝負に勝つコツとは一体何だろうか」

次郎長答えて、「いざ斬り合いになったら、まず、刀の切っ先を相手のそれに当てて、すっと押してみるのさ。これをぐっと押し返してくるような奴だったら大丈夫、これには勝てる。だがね、たまに押されっぱなしになっている奴がいる。これは駄目だ。こんな奴に出くわしたら、後も振り返らずにスタコラサッサと逃げるのが一番さ」

剣術家の伝書などより、なんとに分かりやすいことか。本当の達人とはこうしたものかな。






     無無明録