93 芹沢鴨の不思議 | 無無明録

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書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

 新撰組局長の芹沢鴨と云えば、短気で粗暴、かんしゃくを起こし、すぐに揉め事を起こす。朝から酒をひっかけてと・・・・誰の手に負えないほどの悪行三昧が数多く伝わっている。芹沢は、壬生浪士隊が出来てから半年くらいで暗殺されてしまうので、実際にはどんな人物だったのかよく分らなかった。


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 芹沢鴨とされている写真、ちょっとイメージが違うな。もっとでっぷりとした脂ぎった男だと思っていたのに・・・。


後に永倉新八が「鴨は才幹で国家有事の秋にむざむざと横死したことは彼自身のみではない、国家的損害であるとは当時心あるものの一致するところであった」(新撰組顛末記)と云っているから、ただの飲んだくれで短慮、粗暴だけの男でもなさそうだ。


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           永倉新八


 壬生浪士隊の時に、隊の存在を知らなかった会津藩三番組が、一斉に槍の鞘をはずして浪士隊に詰め寄ってきた。鼻先に多数の槍を突きつけられて、さすがの近藤勇や新見錦もたじろいだ。しかし、芹沢だけは平然として、五寸余り離れたところで突き付けられた槍の穂を例の「尽忠報国の士芹沢鴨」と刻した三百匁(1,125g)の大鉄扇を持って、ぱたぱたと煽いでみせ、気を張り詰めている会津藩兵達を嘲弄すると云う大胆な行動をとったと云う。これは、「肝が据わっている」としか言いようがないな。


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  新撰組の屯所としていた八木邸の子供が死去した時、芹沢は、近藤勇に、普段お世話になっている八木家のために受付を手伝おうと持ちかけ、二人で弔問客の受付をやった。そのとき、芹沢は、子供達といたずら書きをして遊んでいたと云う。
 ワシには、異常性格者のようなイメージしかない芹沢には、余りにも似合わない逸話だ。しかし、芹沢が片時も酒を手放さなかったのは、ひどい梅毒に苦しんでいたためだとも云われ、いつか訪れるであろう末期症状の恐怖から逃れるためだったのかのも知れない。

 芹沢鴨は、現在の茨城県行方郡玉造町芹沢に、上席郷士芹沢貞幹の三男として生まれた。幼名は玄太。15歳のとき潮来の延方郷校で医学を学び、このとき武田耕雲斉などの教えを受けて水戸学を学び、尊王攘夷の思想を身に付けたと云う。


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  芹沢鴨の佩刀、備後三原守家正家。模造刀だけどね。ところで、沖田総司の佩刀は、「菊一文字」とはよく聞く話だけど、細身の刀で実戦には向かないし、何よりも当時でも国宝級の刀だったというから、「菊一文字」はあり得ない。これも誰かの創作なんだろうな。



 その後、玄太の芹沢は、北茨城の神官、下村家に婿に入ったようだ。剣は、神道無念流を学び、免許皆伝、師範役の腕前で居合の方も免許皆伝であったと云う。後に江戸で道場を開いたという話もあるが、その辺のところは、よく分からない。

 1859年(安政6)年に、芹沢は、下村継次の名で水戸尊攘派「天狗(玉造)党」の頭となり300名の部下を率いていたそうだ。
「水戸天狗党(=尊攘激派)の下村継次は潮来で部下を殺害したところから逮捕され、江戸の幕府評定所の処分で入牢させられていたが、武田耕雲斎の助命、また清河八郎の献策による大赦令により、出獄。その後芹沢鴨に改名し、天狗党の同志とともに浪士組に参加したという」(新撰組顛末記)

 このとき、芹沢は、自分と意見の合わない3人の部下を斬って捨てたと云うから、粗暴か凶暴か分らないが、やっぱり普通ではないな。投獄された芹沢は、死罪を覚悟して、絶食し、小指を切って鮮血で辞世を記している。
「雪霜に色よく花の魁けて散りても後に匂う梅の香」
 芹沢の、この繊細さは何なんだろう・・・なんだかイメージが違うぞ。


 全くの想像にすぎないが、芹沢鴨は、この時点で死を決意した。それが思いもよらぬ恩赦で出獄し、一命は取り留めたものの、病気(梅毒)の末期症状のみじめな死が迫ってくる。自然、自暴自棄になってしまったと云うことか・・?


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      芹沢鴨の生家(茨城県行方市)




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芹沢鴨が、それとは知らず最期の宴の時を過ごした揚屋の「角屋」。


 ところで、芹沢鴨の「鴨」と云う奇妙な名前のことだ。
 芹沢は、水戸学を学んだことは前述した。「常陸国風土記」の中に、倭武の天皇が行方の郡に訪れたときのこんな故事があるそうだ。
 無梶河で船に乗ると、鴨がたくさん飛んでいる。弓で射るとすぐさま堕ちてきたと云う。 これがすなわち鴨も天皇にはひれ伏す。自分を犠牲にして天皇に身を差し出す・・・。 


 芹沢の出身地は、芹沢村。この芹沢村から玉造へ向う道沿いに無梶川がある。芹沢は、天狗党に在籍していたが、天狗党には儒学者もいたから、芹沢は、この故事を知って「芹沢鴨」と名乗ったのではないかと思う。

 芹沢鴨と云う男は、純粋な尊王攘夷思想を持っていたのだと思えるのだが、現代に残っている逸話は、やることなすこと粗暴・狂乱としかとらえられない事柄ばかりだ。・・・・実に不思議な人物である。





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   無無明人