30 あの外套(マンテル)を撃て | 無無明録

無無明録

書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

 西南の役で散った薩摩軍一番大隊指揮長の篠原国幹が、出陣に際して妻に与えた決別の歌である。

「ふたつなき 道にその身を ふり捨てて みかき尽くせよ うみの子供ら」

 

 若い頃は、冬一郎。冬一郎というのは何だかいいな。硬質でクールと云う感じだ。

 この人は実のところ、よく分からない。村田新八もそうだが、篠原国幹についての資料も極端に少ない。人となりは沈毅にして勇敢と云い、強情で負けず嫌いでもあったらしい。こんな話がある。


無無明録



 戊辰戦争の上野黒門口の戦いで、篠原は勇を奮って突進し、苦戦を強いられて窮地に立たされた。西郷隆盛どんは、これを遠望し、篠原の身に危険が及ぶのを懼れて、軍使に交戦の進路を転ずべき旨を言い含めて、篠原の元に送った。ところが、篠原はこの命令を聞かずにますます突進してとどまらない。

 

 西郷どんは、ますます篠原を心配し、今度は弟の従道に「この地より一層苦戦を強いられている地あり、足下はこれに当たる勇ありや」と篠原に告げるように命じた。

 それを聞いた篠原は、「なお一層の難地ありとならば、早速赴き援けざるべからず」と、たちまち兵をまとめて撤退したと、云うんだが・・・・。これは西郷どんが篠原の性格を見通しての策と云うことか。


 篠原は、極端に寡黙だったとも云う。熊本の池辺吉十郎が鹿児島の篠原家を訪問した時の話。池辺は篠原と朝から晩まで一緒にいて、自分は思いのたけを話し、その間昼食や夕食のもてなしもあって、満足して辞去してからふと考えたら、篠原は一言も声を発していなかったそうだ。


無無明録


 単にしゃべらないだけだったら、何だコイツと云うことになるだろうけど、池辺が満足して帰って、はっと気がついた、ということだから、聞き上手というより、表情が豊かだとか、言葉以外に相手に伝わる何か他のものがあったんだろうな。


 篠原は、明治新政府の顕官の信任が厚かった。西南の役の前に、西郷党と云われる人々が薩摩に帰ったとき、「桐野(ウチんとこの半次郎どん)は惜しくはないが、篠原は惜しい」と言わしめたと云う。(半次郎どんは惜しくはないだと!誰だ、云ったヤツ、歯を食いしばって一歩前へ!)


 有名な逸話としては、篠原が近衛長官の時に、近衛都督元帥の西郷南洲翁とともに、明治天皇御観覧の陸軍大演習に参加し、暴風雨で天皇自身もずぶ濡れになる中、篠原が指揮をとり、見事な奮戦ぶりを示した。その後、天皇が篠原を近くに召しだし、篠原に見習えと云う意味で、「今日よりこの地を習志野原と名づけ、操練場と定む」と褒め称えたのが、「習志野」の地名の由来とされているそうだ。

このとき、明治天皇は二十二歳。若き天皇は、陸軍少将篠原の凛々しさと統率力に興奮し、感動したんだろうな。このとき、南洲翁が、天皇の天幕の前で、一晩中、自ら見張り番をしたと云う話もある。


無無明録


さてさて、篠原が幕末の歴史に登場してくるのは、例の寺田屋騒動のときからかだろうか。南洲翁の弟の従道もこの場にいた。薩摩藩士の同志討ちのような状況だが、このとき篠原は26歳。西郷従道は18歳で、後の陸軍大将大山弥助(巌)は19歳だそうだ。これで暫く謹慎を命じられた。



その後、薩英戦争、蛤御門の戦い、鳥羽伏見の戦いと続き、上野戦争では、最大の激戦地になった黒門口で薩摩軍を統率。さらに白川、会津若松に転戦と、まさに歴戦の勇士、篠原の名前は徐々に鳴り響くようになった。

篠原は、自ら前に立ち、先駆けをする自分を全軍に知らしめることによって、部下の士気を奮いたたせる。薩兵は、そんな篠原が、薩摩隼人の鑑のようで、たまらなく好きだった。

「篠原どんに遅るるな」薩兵は、そう声を掛け合って、競うように前に進んだ。


しかし、幕末が終わってからは、ご承知のとおり。

篠原は、敬愛する西郷南洲翁の後を追って、薩摩に帰る。このとき、頭を抱えたのが大久保利通。桐野利秋のような暴れ者はいなくて結構だけど、篠原だけはいなくなっては困る。


無無明録



(あっ、あっ、あっ!大久保だったのか!大久保、歯をくいしばって30歩くらい前へ!って、そんなに前に行ったら目の前にいなくなっちゃうぞ、おい!)


西南戦争では、篠原も半次郎どんもそうだが、あくまでも正面突破と云うことしか考えない。

政府軍の圧倒的な兵力の前に薩摩軍は敗れるのだが、田原坂から吉次峠と戦場を移した時に篠原は、裏地が緋色の外套を羽織り、手には銀装の太刀を持って戦場に立って、部隊を指揮した。


無無明録


 これが政府軍の目につかない訳はない。遠望する誰が見ても篠原であることが分かる。篠原は、雨のように降り注ぐ弾丸の中でも低い姿勢を取らない。

 しかし、それが格好の標的となってしまった。部下が慌てて、篠原に取りすがっては、下るように頼むのだが、篠原はその声に微笑みながら、「おいは戦さをしに来たとじゃ」と。


そして、そして、篠原の顔を見知っていた政府軍の将校が部下に命じたのだ。「あの外套(マンテル)を撃て」・・・・・・・・嗚呼。



 南洲翁は、篠原の寡黙で剛直な人柄を愛しており、篠原の遺骸を目にしたとき、「お冬(とう)どん、どうしてこんな早まったことをしたのか」と、慟哭したと云う。好漢篠原国幹、享年42。

 




無無明録

無無明録