北海道を走り回っている間もずっと頭の中に声が聞こえていたが、ゴールデンウィークを境に、その声は聞こえない声が中心となった。

 

聞こえない声はほぼ自分の頭の中の声と同じように感じたが、実際には自分の声でも考えでもなかった。それは微妙な訛りの違いでも判別できた。違う地方の人には関西弁は1つに聞こえるかも知れないが、実際には1つではなく、地域によって細かく喋り方が違う。自分の喋り方いろんなものが混じっているため、自分と全く同じような訛り方の関西弁を話せる人は限られている。

 

それだけでも区別が付けられるが、その聞こえない声は標準語を喋るだけでなく、自分の使わないような標準語の表現を使っていた。そのため、自分はその声が自分の内なるものではないことに気付いていた。

 

それは事前に聞こえる声が聞こえていたからかも知れない。最初から聞こえない声だけであれば、それを内なる声と思った可能性は十分にある。ただし、その内なる声は自分の行動の選択肢の1つにしかならないため、それだけで自分の行動を制御するのは難しい。

 

一方で、聞こえる声の場合は、その声を信じてしまえば、完全に対象者をコントロールできる。それが神の声だと信じれば、その人は神の意志のままに行動する。しかし、実際にはそれは神ではなく、電波工作者の声である。

 

自分にはその工作が機能しなかっただけでなく、逆に、その声の主が誰か分かることが頻繁にあった。その結果として、必要以上のアイデンティティが露見することがあり、彼らの工作は混乱に陥っていた。

 

それに対して、聞こえない声の場合は言葉使いにしか差がないため、相手を見分けるのがとても困難であった。その声が自分のものでないことは分かるものの、相手が分からないことが頻繁にあった。また、そもそも、それが自分の考え方なのか、誰かの考え方なのか、根本的に分からなくなることも頻繁にあった。

 

 それは自分がこの工作で優位に立てなくなった理由の1つでもあった。相手を理解できるからこそ相手の発言を遮られていたが、それが分からないと相手の発言を邪魔できるほど相手のことは分からなかった。自分が脳内の会話で優位に立てなくなったのは電波操作のタイミングの問題でもあるが、それ以外にも自分がより工作の劣位に立つ理由があった。

 

 このような状況の変化によって、自分の思考がよりコントロールされるようになった。それは彼らが追い込まれたためにやり方を変えたからでもあったが、自分がどうやってそれに対抗すれば良いかは分からなかった。

 

 

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