自傷行為は攻撃的な感情の延長にある。その攻撃性が自己に向かった際に、自傷行為となる。

 

自傷行為が自己に向けられるのは、攻撃性が自己に向かうことによって他人への攻撃を抑えられるからである。攻撃的な感情が高まり、ストレスが高まった際にその攻撃が必ずしも自己に向かう必要はないが、それが他者に向かうと社会的な問題となる。それを避けるために、その攻撃性を自己に向けるのは効果的な手段となる。

 

攻撃性が自傷行為へと昇華すると、その行為によって攻撃的な感情をリリースできる。自分を傷つけることによってストレスレベルが低下し、ある程度の達成感を得られた段階で自傷行為は止まる。しかし、人間の脳の性質としてストレスや感情のリリースを同じ行為で何度も繰り返すと、より大きな開放感が必要となるため、より自傷行為がエスカレートする。それが制御できないレベルにまで増加すると、最終的に自殺に至る。

 

自傷行為は原始的な感情の延長ではあるものの、一般的には、その攻撃性は他者へと向かう。脳が原始的であればあるほど、剥き出しの攻撃性が高まるので、自己に向かわない。攻撃性が自己に向かうのは前頭葉や大脳皮質が機能し、理性が感情を抑制しているからである。

 

感情が完全に爆発すると前頭葉の機能では止められなくなるが、その際は小脳が体をコントロールしている状態になり、理性も機能しないが、因果関係や状況も記憶できなくなっている。瞬間的なイメージと感情の記憶くらいしかないかもしれない。

 

逆に言うと、前頭葉が機能していれば他人への攻撃は制御できる。それでも他人への攻撃が許容される場合があり、それは共感する感情の障害かもしれない。ミラーニューロンの問題かオキシトシンの問題の可能性かもしれないが、そうではなく、完全に合理的に相手を敵と見なすこともある。その考え方は共感性を超越して、社会的な結果として生み出され、それが脳内の報酬体系の中で正しい行動だと選択される。

 

問題は電波でどこまで操作できるかという点である。電波は攻撃性を高められる。その攻撃性が高まった感情はそのまま維持できないため、攻撃性はどこかに向かって放出され、その結果としてストレスレベルが低下する。感情の爆発は電波だけで起こせるが、その感情がどこに向かうかまでは同じ電波操作ではコントロールできない。

 

つまり、その感情が自己に向かうか他者に向かうかは、攻撃性の感情を高めるだけでは決定されない。本質的にはその人の考え方の特性に依存する。そもそも他者を攻撃することを制御する性向の強い人は、攻撃性を高められても他者を攻撃しない可能性が高い。それよりも、そのストレスが極端なレベルまで増加すると、自己に向かい自傷行為となる。

 

それでも、イライラしている対象がはっきりしていれば、その対象に向かう可能性はある。そもそも電波で引き上げられているのは攻撃性だけであって、それは単線的な感情であって、感情の中には方向性はない。

 

一方で、普通に生きている限りはちょっとしたことでもストレスを感じることがあり、その攻撃性が高まっている状態で電波によってストレスが加えられると、ストレスレベルがより増加し、攻撃性もより増加し、結果として他者へと向かうこともある。それでもやはり、その対象者の特性は重要であり、依然としてその状況でも自傷行為に向かう人もいる。

 

それに対して、他者への攻撃に慣れている人はそもそも社会的な抑制の感情が低く、電波で攻撃性が高められると自傷行為に向かわない。すぐに他者に対する攻撃へと転嫁され、攻撃性が満たされ、ストレスレベルが低下すれば攻撃が止まる。ここでも自傷行為と同じ問題があり、当初は軽い攻撃でストレスレベルは低下するかもしれないが、エスカレーションする必然性があり、最終的には傷害致死にまで至る。

 

このような性向の人が自傷行為に向かうのは限られており、その性向は変え難い。逆に、自傷行為に向かう人を他者への攻撃へと駆り立てる方が簡単かもしれない。例えば、アルコールを摂取すると前頭葉の機能が低下するので、電波による攻撃性の高まりはより他者への攻撃へと転嫁させる。あるいは、徹底的にマニピュレーションをすると、ストレス源に対して最終的に攻撃に至るだろう。その場合、最終的な結論は自殺か殺人になる。