愛と平和プロジェクト | せめて、真崎らしく。

せめて、真崎らしく。

そんな感じです。

  
  
愛!!!と!!!平和!!!!
  
愛!!!と!!!平和!!!!

愛!!!と!!!平和!!!!


悲しみで花が咲くものか!!!!!
    
  
  
  
  
  
  
って、サンボマスターの人が言ってた
  
  
  
  

その歌を聴いていたまさにその時
「口は災いのもと」を学んでいた私  
  
しゃべることだけじゃなくて
ネット上での発信も含め
  
    
  
クリスチャンの友達は
「真崎の舌を守ってください」
って祈ってくれてた
  
  
  
舌、暴走してた

災い製造機になってた
  
  
  
  
負の感情のままに発信する言葉は
たとえそれが「正しい」とおぼしきものであっても
なにひとつ良い成果を生まない
  

むしろ、わりと失う
  
  
  
  
冷静になったときに
そんなことに気付いた私は
  
  
「心乱れて誰かを否定し傷つける言葉を発信しようとしてる自分に気付いた時は、その言葉を1度飲み込んで、その代わりに「愛と平和」とつぶやく」
  
  
という
  
  
【愛と平和プロジェクト】
   
  
を始めることにした
  
    
  
  
それが大学5年生のとき
  
影響力はバツグンで
微塵も流行らなかった
  
  
  
ただ、苦しくて腹立だしくて爆発しそうな気持ちで出てきそうな言葉をウッと飲み込んで、振り絞るようにTwitterでつぶやいた
  
「愛と平和」
  
  
その4文字の投稿に
  
  
  
「愛と平和  RT@真崎  愛と平和」
  
  
みたいなレスをしてくれる人が増えた
  
  
  
  
ちょっと嬉しくて

そんなちょっとした嬉しさにほかほかしてる間に気付いたら負の感情と言葉がどっか行ってた
  
ってか結構どーでもよくなってた
  
   
  
なんてことは、意外とよくあって
  
  
  
  
  
  
  
ここ約3日間ほど
こころの中で人を裁きまくった
  
  
人を否定したくて否定したくて
たまらなかった
  
  
存在そのものまでって勢いで
「あなたは間違っている」
を突きつけたい衝動に駆られていた
 
  
事実はあっても
人の中に真実はないんだって
事実を自己都合フィルター抜きで見られてる奴なんざ誰もいないじゃないかって
結局都合の良い解釈の世界に生きてんじゃないかって

  
  
そんなことを強く感じて
すべてが滑稽で馬鹿馬鹿しくて歯痒くてウザったくて総じて悲しくなった 
   
  
  
  
  

いよいよ今日人を傷つけそうだった
  
あぶなかった
  
  
  
  
  
連絡することにした相手は、りなまま
  
  
感情的だったけど
ここだけは賢明な判断ができたと思う 
  
  
  
  
  
できることはふたつ、だって
  
  
  
「相手を赦し、相手のために祈りなさい」
  
  
  
「今から自分がしようとする行動が生むものが「平和」なのか「争い」なのかを問いなさい」
  
  
  
  
  
電話終わってから、祈りまくった
  
嫌すぎて途中ウーウー唸りながら
たまに悪態はさみながら
  
祈った so much
  
  
  
  
終わったら全部どうでもよくなってた
  
  
負の感情と負の言葉

ド一過性
  
  
  
  
  
自分の力でどうにかなんてできない
  
  
人間が神様になろうとすること
つまり「自分が絶対正しい」の位置に立つことは無理
  
  
  
勝とうとするために
自分の正しさを認めさせるために
  
誰かを負かし
誰かを否定して
  
  
そこにあるのは
ただ短期的な「勝った感」
  
長期的に見てその先にあるのは
「ひとりぼっち」
  
  
  
そんな「勝負」はいつだって諸刃の剣
しっかりと自分の心蝕んでる

  
  
  
そんなことは
何度も見てきたし経験してきたはずなのに
  
それでもまた繰り返そうとしてる
  
まあ、そんなこともある
  
  

  
  
  
争いではなく平和を生み出すための行動を選択すること
  
  
舌が暴走しそうな時はウッと堪えて「愛と平和」とつぶやいてみること
   
  
相手のために祈ること
  
  
  
  
  

【愛と平和プロジェクト第2弾】
   
  
またここから始めてみましょ
  
  

真崎