人の命の重さ | 多系統萎縮症の父と介護する家族の奮闘記

多系統萎縮症の父と介護する家族の奮闘記

特定疾患である多系統萎縮症の一つ「線条体黒質変性症」を発病した親父の闘病とそれを介護する家族の備忘録を書いているブログです。

http://secret.ameba.jp/mtmtmmyhtn/amemberentry-12129788365.html
ここで書いていた親戚が先日亡くなった。
事故から3年以上と書いたがもうすぐ丸5年になるそうだ。

通夜は母と二人で、告別式は弟と姉も加わって参列した。

何とも思っていなかったけど涙が出た。
別にこの親戚に思い入れはなかったけど
思い出は多少なりともある。

この人が亡くなったことが悲しいのではなく
悲しんでいる家族親族を見ると
その気持ちが伝わって泣けてきた。

また、自分の場合に置き換えて考えてしまって
自分の親がなくなったら・・・
友人が亡くなったら・・・
と想像しては涙を流していた。


葬儀に参列してから色々思うことはあった。

どんな人であれ、子供にとっては親であり
孫にとってはおばあちゃんである。

みんなが送る言葉を書いていたのを見たけど
お母さんありがとう
おばあちゃん、大好きだよ
などと書かれていた。

それを見るとやはり涙が出るし、
人間は人それぞれ価値があり、
どんな生き方をしても死んだらチャラになる。

悲しい、寂しい

それだけになってしまい

ありがとう、おつかれさま

になってしまうのだ。


色々あったけど亡くなってしまえば
自分的にも「お疲れさまでした」
という気持ちだけになった気がする。

病気ではなく事故で車にはねられたわけで
それがなかったらまだ元気で生きているであろうということを
考えたらやはり本人も家族も気の毒だ。

植物状態ではあったけれど
「生きてこの世にいる」
というのと、
「死んでこの世にいなくなる」
というのはとてつもなく大きな違いがあるし、

亡くなっても、
ご遺体として形が残っている、つまり人型として現存するのと
焼却されて姿形が無くなるのにも
大きな違いがある。

亡くなった時に号泣し、
焼き場でスイッチが入れられた時にまた号泣する。


感情論だけになるけれど、誰も見送らずに
自分が最初に死にたいという気持ちが理解できた。

親兄弟が亡くなることに耐える自信がないというのが
正直なところだ。

他の親戚は相変わらず金のことばかり話していた。
自分の兄弟が亡くなったのに
「あいつはうちには全然来なかった」とか
恨み言のように言っていた。

「これからは死ぬんなら交通事故に限るな。
車にはねられないと」
という発言も出ていたな。

つまり保険金が入ったことを揶揄しているのだ。
なくなった実の兄弟の葬式で出る発言かねえ。

でも、この人達が亡くなった時は
やはり泣いてしまうんだろうな。