『踊り』

2012-02-14 16:10:09 テーマ:桜月流の剱
(2007年に書いた『踊り』というタイトルのブログなのですが…新しい友達にちょっとほめられたので完全に図に乗り、再び掲載してみました(^^)…以前読んでくださった皆さんも、大変恐れ入りますが…よろしければもう一度読んでください…)



最近、比較的、フィギュアスケートが好きだ。

子供の頃は好きじゃなかった。

スケートのスピード競争を見るのは好きだったが、フィギュアスケートを見ていると、踊っているのか滑っているのか…なんだかよくわからないなぁーという感じがしていた。

と言うより…氷上である、ないにかかわらず、『踊り』という行為自体があまり好きではなかった…のだと思う。

タイムやゴール、ポイントなどで相手をハッキリと打ち負かして勝敗を競うのでもなく、子供の目からは優劣の見分けさえもよくわからない類いのスポーツ…?芸術…?しかしながら何か華やかで、大勢の人の目を惹き付ける力のあるモノ。

『何でダンスするんだろう』

毎日の生活のほとんどを草野球で占めていた子供時分の僕には、「目に見えないモノ」の価値が良く理解出来なかった。

その後、剱の稽古を始めて、剱の動作の中に舞踊的な要素が見られることに気付き始めてからも、剱と踊りは別物…と頑なだった。

しかし…剱を扱う技術のことを考える機会が増えるほどに僕は、舞踊的な要素の重要性に目を向けざるを得ないという気がし始めた。

そしてある日、雑誌の中で見つけた記事に『何でダンスするんだろう?』という問いかけへの答えを見つけた気がした。


『…ネイティブ・アメリカンは、枯葉が落ちる様子、川が流れる様子、雪が空から降る様子…など日々繰り返される見慣れた自然界の営みを眺めて…それら全てのことを「ダンス」と言う…』

…たしかこういった内容だったと思うが、衝撃を受けた。

自然のリズムで営まれるあらゆる事象…時と共に日々生まれ、日々色褪せて行き、日々滅して行く…うつろい行く生命の流れと波こそが『ダンス』。

そこに決められた音楽はないが、生命自身の持つ鼓動、バイブレーションに導かれて揺らぎ、動き続けて行く様を、我々日本人と同じ血を持つアメリカ大陸のモンゴロイドたちはダンスと考えたのだ。

感動した。

秋の枯葉は風に揺れる。
春の桜の花びらたちは空に舞い、いつか地面にその身を横たえる。
川の流れはうねるように流れて、
月に照らされた海の中では魚たちが踊るように泳ぐ。

この宇宙では皆が踊っている。

ネイティブ・アメリカンの澄んだ瞳を通して見ると、自然界の中で毎日毎分行われているありふれた営みさえも生命の輝きに溢れたダンスに見えていた。

剱を手に持ち振るう姿も生命の煌めきと考えれば、踊っているのだろう。

恥ずかしながらダンスという言葉が大好きになってしまった。

…きっと、大人になってもジャズダンスのレッスンでうまく踊れなかった劣等感が『ダンス』という言葉に対して抵抗感を持つ追い打ちをかけたのだろう。

でも、ジャズダンスがうまく踊れなくても、毎日の生活の中で懸命に生きていれば僕はダンスを踊れている。

館山市南総里見祭で合戦絵巻や剱舞のご披露を行いました。

2011-10-02 18:56:55 テーマ:剱Performance
昨日、10月1日に千葉県館山市の南総里見祭で殺陣や剱舞のご披露をさせて頂きました。

例年は館山城址公園にて開催される合戦絵巻が、今年は30周年ということで赴きを変えて、館山駅からほど近い北条海岸の砂浜にて開催されました。

祭前日の下見の際は風速20mという強風で、立っているだけで身体も剱も持って行かれそうになり、足元のおぼつかない砂浜と相まって、とても厳しい状況でしたので翌日の本番が無事に進行するか大変不安に感じました。

出演者の皆には、もし本番中に足元の砂が身体を支えてくれなかったり、強風で手にした剱や槍、もしくは身体のバランスが崩されたりしても、粘り強く演技を続けて、わざわざ合戦絵巻を観に来てくださった皆さんに出来る限りたくさん楽しんで頂こうと伝えました。

本番前日の夜は、宿泊先の女将さんの御厚意で旅館の大広間で稽古もさせて頂くことが出来ました。有難いことでした。

松竹衣装の石澤さんは連日様々なコーディネートに追われて、見ているこちらが心配になってしまうほど働き詰めでした。頭が下がります。

桜月流は剱(殺陣)で恩返し、と申しますか、自分の務めを果たすしか術がありません。と思うと、なおさら翌日の天候と足場の状態、そして自分のパフォーマンスの出来不出来が大変心配です…

そして当日、薄曇りの天候の中、太平洋を広く見渡す海岸にて僕は北条氏康という里見八犬士の敵役を演じたのですが、約40分にわたる合戦絵巻のクライマックスで相澤美千子の演じる犬塚信乃、池内亮太の演じる犬田小文吾との立ち回りを演じて祭の幕引きの一端を担わせて頂きました。(ちょっと大袈裟に言い過ぎました。客観的には、『祭の終盤で八犬士たちに斬られて退散する武将を演じました』です…)

結果は…いかがだったでしょうか…お客様にお聞きするしかないのですが、僕なりに精一杯の準備と実演を行うことが出来たようには思いました。もちろん、もちろん、次は乗り越えたい課題もたくさん残ったのですが、次回の活動に繋げて行けるような段階には行けたのではないかと独り思っています。

合戦絵巻を御覧になってくださった皆様、本当にありがとうございました。

終演後に皆さんが声をかけてくださったことが、とても嬉しく、励みになりました。この先も僕たちを支えてくれる温かい出来事でした。

次は、12月の「衣川幻想~完全版」に向かって、意識を高めて参ります。どうぞまたお支えください。


『衣川幻想』の稽古場にて思う

2011-09-28 07:41:48 テーマ:徒然草
あの3月11日以降、「『生きる』って何だろう」と考える時が増えました。

やっぱり、その答えは見つかりませんが、ただひとつ思うことは、「恨み」「妬み」「憎しみ」といった恥ずべき感情を少しでも少なく、その代わりに「喜び」「楽しみ」「優しさ」といった思い返すだけでも胸の中が熱くなるような感情が少しでも多く自分にもたらされるような態度で現実と向き合って、しかし自らの人生に起きることは全て自分の責任と受け止めて、残りの人生の日々を過ごして行くことが「生きる」という本来の目的に近いのではないかと思っています。

どれだけの時間が僕に残されているのかわかりませんが、「僕は死にましぇん!!」ではありませんが、もし人間が何かの使命を持って生まれているとしたら、その志半ばの内は死を免れることが出来るのではないかと稚拙にも信じていたいと思っています。

いや、違いました。その志半ばで倒れた先人の例えを見ても、その言葉、文、笑顔、といったひとつひとつの面影は、その人の死後においても、その志の輪郭を立ち上げる熱を持ち、後に続く人々および残された人々を励まし、支え、突き動かす力となります。であるとすれば、人の意志、魂はある高みに到達することによって、不滅という解放を得るのではないかと思います。

思うに、私達桜月流ひとりひとりの魂を不滅とする為の器は剱にしかありません。

今日一日を価値高く生きて、不慮の死を迎えようとする瞬間にも自らを励まし、その未知なる一歩へ踏み出す為に必要な何かを知りたいがためにも今日も剱の稽古に向かいます。

剱を持ちて、舞を舞い、物語を語る。あの3月11日という日を目の当たりにして、改めて、それが桜月流の使命と感じています。

「衣川幻想~完全版」は、そんな思いに突き動かされた、やや客観性の足りない夢見がちな我々が語る、この世で一番美しい物語だと思っています。どうぞ御覧になってください。


剱舞の基本となる動き (1)大上段~斬り下ろし

2011-09-25 00:43:14 テーマ:桜月流の剱
『大上段~真っ向斬り降ろし』という動作は、自らの手にした剱を頭上高く、その切っ先が天を突き上げるような心持ちで上段に振りかぶり、次に、前方の相手に対して真っ直ぐに刃を斬り降ろし、その斬り終わりにおいては剱先(切っ先)地に鎮めるような心持ちで振り降ろす動作です。


この一連の動作は、剱を振る訓練においてまず初めに学ぶ第一歩であり、第一歩であると同時に、剱の動きを志して後、何年と経っても迷いを感じ、腐心させられる動作であります。


しかしながら、剱先を天に向けて舞い上げるように振りかぶり、その刹那、一瞬、天とつながったかの如き剱先の気を地に向けて鎮める心持ちで振り降ろす時、技術的な優劣や拙さなどはあまり大きな問題ではないようにも感じます。実際、武術的な心得のほとんどない私にも充分楽しさを感じることが出来ます。


なんだか理由は良くわからないのですが…天に向けて剱を振りかぶり、地に向けて斬り降ろすと、とても気持ちが良いです!


天地、と私。みたいな感じがして、とても心地よく感じる時があります。


と、同時に…全く矛盾したことを申しますが…この『真っ向に斬り降ろす』という動作ほど人間にとって不自然な動作もない気持ちがします。


(そう思う理由…次回、書きます…また、『国語力』…スミマセン、敦子さん、明日書きます…!申し訳ありません…!)


タイトルを変えました。

2011-09-20 15:28:30 テーマ:ブログ
思いきって、このブログのタイトルを変えました。

…僕の剱舞(殺陣)歴もかなり短くない段階に入って来てしまったので、「頭(考える理想)」と「身体(体力・技術)」のギャップが出来るだけ少ないうちに自分が考える剱について詳しく書きたい気持ちになりました。

そんな気持ちに伴って、最近の稽古場で皆に伝える内容と伝え方が変化して来たように思います。

以前は、僕が剱に対して考えている小さなことは殆ど皆に言いませんでした。僕が勝手に考えている小さなことが皆の役に立つことかどうか自信がなかったので…。

でも最近は、相手の役に立つ、立たない、ということはなるべく気にしないで、僕が剱について考えて来たことを押し売りすることにしました。

それらの情報が相手の役に立つ・立たない云々は伝えた相手にお任せすることにいたしました。

いい歳して押し売り&開き直りです。


ただ、押し売りするからには僕が今までに実感していることしか伝えません。

実感している動きの中から重要だと考えているものを選んで、その動きを伝える為の言葉たちも自分で腑に落ちるものを選んで伝えるように留意します。

なので、従来の稽古場よりも言葉、というか「国語力」がお互いにとって、すごく大切になって来たと思っています。



誰にとっても、考えている身体の動き(感覚)を全て余すところなく伝えることが出来る、すごい言葉は存在しません。…と思います。

なので、自分の動き・技術を精密に伝達しようとしても、現在人間が使っている言葉や文章だけでは全く情報量が足りません。


何か自分の動きに関しての情報を伝える為には、身振り手振りはもちろんのこと、見本、接触、誘導、対峙、などなど様々な手段が必要だと思います。


中でも一番良いのは見本だと思います。しかも、ゆっくりと一つの見本の形を作って見せるのではなく、その一連の流れ(その形の前後を含んで)を実際の速さで行って見せる見本が良いと思います。


「百聞は一見に如かず」の例え通り、やはり「目で見た」印象と情報は教わる側にとっては言葉や文章よりも大きく、その形・流れの全体像を生徒自身の身体に取り込みやすくなります。

と同時に、その結果、その稽古場に通う生徒のレベルが、そこの先生のレベルを超えるものになることが非常に難しくなる可能性も強く持っていて、目から入った情報がいかに大きく影響するかということがうかがわれます。

きっと、最初に見たもの(先生)が基準(理想)となって、そこに到達すること、もしくはそこに向かって行く段階そのものが終着点となっている場合が多いからではないでしょうか。

これは教える側としては、本当は、とても良くない状態だと思います。本来、稽古場にて何らかの技芸を教える・教わる、という状況において、教える側は自身の考える理想に対して自分よりも近づく者、自分を超える者を生むことが、もともと教える側の本意であったはずです。



ああぁぁ…また否定的なブログに迷走してしまいました…

しかも、もともとは桜月流の稽古場において「国語力」が重要だなぁ…と思ったことについて書いてみたかったのに…


ああぁぁ…敦子さん(J-Stage Naviの)、すみません…また一からやり直します…しかし、一応、考えていることを正直に書く…ということは行ってみたので…アップいたします…
(^^;)

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