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2024年6月22日の、中川真理さんのセッションの内容をご紹介させて頂きます✨



今回のセッションの前半は、上杉謙信公と松姫さま(武田信玄公の娘)からのアドバイスでした。


詳細は省略しますが、私がこれまで経験したことを活かして人の役に立つ為の、具体的な方法をご提案して頂きました。



話の流れの中で、織田信長の話題になり、恐怖を煽り、その脅威から守ってくれるのは信長様だと思わせる統率の仕方は間違っているとのことでした。


(信長は自分なりの高い理想があり、そこに至れない自分や家臣達に常に苛立っていたとのことです)




そうではなく、お互いを尊敬し合って、出会えたご縁に感謝して、それぞれの素晴らしい所を合わせることで、平和な良い世の中にする、

それが毘沙門天様のご意向とのことでした✨





その話の中で、以前のセッションで謙信公が語られたことを、私が思い出して話しました。


🌕謙信公『あの時代、我々は戦をしていたのではない、とするならば、何をしていたのか?』


私が答えに窮していると、


🌕『世直しをしていたのだ』



という、やりとりでした。



すると、


『わたしも同じ思いだ。あの時代、誰が一番だとか、二番だとか、という争いで、皆がほとほと苦しんだ。だから頼む』


とおっしゃる人物が現れました。


それは、平将門公でした。


初めてのご登場で、いささか驚きました。



私が「将門公も人々の為に戦っておられたのですか?」


とお聞きすると、


🟣将門公『その時は怒りもかなりあった。


それは、人を人とも思わない、自分を駒のように扱い、人を蔑み、自分達だけが尊いと思っている上の立場の者たちの心が許せなかった。


そういうものを変えようとした。


自分も世直しをしたいと、心から思っていた』




🔶松姫さま『未熟な家系ゆえ、申し訳ありませんが、そこに参加をさせて頂きたく。』

(中川さんによると、償いのお気持ちからだそうです)





ここで、もう一人の人物が登場しました。


甲冑を着ていて、厳しい雰囲気で、さっきまで戦をして、人を斬ってきたかのような波動で、戦国の血生臭さを感じさせる武将とのことです。


謙信公や将門公は波動を柔らかく調節して下さるので、お話が聞き取りやすいそうですが、この武将は調節してくれていないので、頭が凄く痛くなるとのことです。



赤い兜を見せてきたそうで、長野県の武将

らしいとのことで、真田信繁さんですか?と聞いても反応がなく、真田幸村さんですか?と聞くと、頷かれました。


何故か、本名の信繁よりも、通称?の幸村の方を気に入っておられるみたいです。


本名よりも幸村のほうで知られているからなんでしょうか。



🔴幸村さん『仲間に入れて欲しく参じた。


自分のやり方は少々改めるべきところがあった。』


(中川さんによると、この方は、割りと気短で、合理的で、勝敗が早く決まらないのは凄く嫌な性格なんですね)


🔴幸村さん『自分は時間をかけるのが好きではなかったので、わりと部下に丸投げをしていた。


そこを間違えていた。』



中川さんによると、謙信公は宇佐美ほか家臣達と戦略・戦術をみんなで練っていたので、綻ばない感じとのことです。

綻んだ時に心と心の絆が作れなかったことに、物凄くガッカリしたそうです。



幸村さんは、そういうことがあまり好きではなく、方針だけを示して、あとは部下にやらせるという、トップダウンのやり方をしていて、家臣達の能力は買うけれど、あまり心と心を通わせる関係ではなかったそうです。

家臣達と親しく酒を酌み交わすような関係では無かったとのことです。



🔴幸村さん『結局そういうものは脆い。

人と人との関係はそういうものではない、ということを死んでから気づいた』


(中川さん)波動を調節して下さったので、お話が聞き取りやすくなりました。



上杉謙信公、松姫さま、平将門公、真田幸村さん、皆さんに共通している認識は、


『強い者が弱い者を支配する、という前提を変えていく。


皆が尊敬し合って、平和な世の中を作っていく。


それが世直しである』


とのことです。


世直しの最低条件は『悟り』とのことです。



*****************


7月20日に、八王子の信松院にある松姫さまのお墓にお参りにいくにあたり、松姫さまに何かご希望はありませんか?とお聞きしました。



🔶松姫さまは、『懐紙』とおっしゃり、


『なぜなら懐紙は何にでも使えるのですよ。


人様に何かをお贈りする時に包んだり、お菓子の敷物にしたり、


万能なお懐紙のようになりたいのですよ。

わたし自身が。


柔らかい心でいたいのです。


それなので懐紙が欲しいのです。


それが今のわたしの心境で、必要な時は袋がわりになり、お菓子を置く紙になり、という七変化出来る柔らかい心を手に入れたいのです。


何故なら、武田家は柔らかい雰囲気の家では無かったからです。』




中川さんによると、お懐紙とおっしゃった別の意味として、懐紙はお茶席で和菓子を載せることにも使われるので、和菓子などを一緒に召し上がりたいということなのではないでしょうか。


"松姫最中"が良いのではないでしょうか。



🔶松姫さま『もし持ってきて下さるのでしたら、わたしの墓前で一緒に頂きましょう。


それが許しの証しだからなのです。


わたし等が本当は許されるはずがないのですが、


食を共にすることが、許しの証しなのです。


本来、敵と味方が共に食を共にすることはないからなのです。』



(中川さん)それで敵と味方では無くなるということではないかと思うんです。


これからは目的を共有していく仲間になるということだと思います。




🟢わたし『武田信玄公の娘の松姫さまと御縁が出来たことについて、謙信公はどのように思っておられますか?』



🌕謙信公『本来のすがた。


本来、敵も味方もなく、ひとはお互いの立場によってそうなってしまうだけ。


立場によって翻弄されるのが人間である。


でも、蓋を開けてみると、じつは同じ心の持ち主だったりする。


そういう者同士が、酒や甘いものを・・』



謙信公は涙を流されながら



『仲良く共に食する・・・それを切に願う・・・』



『生きている間にそれが出来ていれば良かった・・・本当は』



『生きている間にそれを実現させたかった・・・』




*****************





(本来の目的は松姫さまのお墓参りなのですが、急遽、将門公がお越し下されたので)


🟢わたし『東京に行くので、将門公の首塚に伺っても宜しいですか?』



🟣将門公『出来たら、築土神社に来て欲しい』


神田明神ではなく、築土神社がご自分の本拠地だそうです。


『首塚は行って見たければ行っても良いけれど、自分は築土神社のほうにいる。


ぜひ来て欲しい』


『ご足労願って済まない』


『築土神社の御札を一枚持ってくれたら有り難い』


(築土神社の由来を見ると、平安時代より平将門公を御祭神としてお祀りしてきたということなので、やはり、ここが本拠地に相応しいと思いました)



🟢わたし『お供え物は何が宜しいですか?』



中川さんによると、落花生(ピーナッツ)を見せられたそうです🥜


あと、お酒を酌み交わしたい御様子とのことで、


当日の神社参拝の時は要らないので、落花生とお酒を今日用意して貰いたいとのことでした🍶



🟢わたし『真田幸村さんもお酒にお誘いして宜しいんでしょうか?』



🌕謙信公『皆で酌み交わそう。


心温まる時間になる』



と、おっしゃって、嬉しくて泣いておられるとのことでした。



中川さん(立場を超える美しさ。

真善美というものを、やっと共有できる仲間が出来て、凄く有難いということなんですね。


当然、幸村さんもお誘いしてという感じなんです。


幸村さんが、すごく頭を下げていらっしゃいます。



幸村さんのリクエストも聞いてあげて欲しいそうなんです。)


幸村さんのご希望は、塩辛(いか)とイチジクでした。


イチジクは真田とゆかりがあるそうなんです。


(少し調べてみましたが、わかりませんでした)



松姫さまは、お酒の席には参加されずに、ご自身の墓前で一緒にお菓子を頂きましょう、とのことでした。




このセッションのあと、謙信公、将門公、幸村さん、わたしの4人での酒席となりました🍶



将門公の落花生、幸村さんの塩辛とイチジク(ドライフルーツ)は、用意出来ましたが、謙信公の「たこわさ」が今日は用意出来なかったので、カツオのたたきにさせて頂きました🐟



この時間は、中川さんはいらっしゃらないので、YouTubeの動画を流すことが多いです🎵


謙信公のお好きな琵琶の演奏(平家物語)が多いです。


最後の〆は、桑田佳祐さんの『smile~晴れ渡る空のように~』を必ずかけます☺️


初めて上越市の春日山城の本丸で、謙信公と酒を酌み交わしたのが、東京オリンピックの年で、この曲がオリンピック向けに作られたもので、曲も良いのですが、歌詞が謙信公を連想させるので気に入っていて、本丸でも流した思い出の曲なんです✨





☆7月20日(土)に、謙信公と共に、無事に平将門公の築土神社と、八王子の『信松院』さんにある、松姫さまのお墓参りを果たすことが叶いました🙏✨


信松院さんでは、ご住職様の奥様にとても御親切にして頂きました🧡


本当に有り難うございました🤗🙏



参拝時のことは、次回につづきます。



八王子『信松院』



















































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2023年12月30日と2024年1月7日、中川真理さんのセッションを受けました。


その内容をお伝えいたします。



🌸現れたお姫様とは


その日のセッションも、いつもの通り、私の右側の後ろに上杉謙信公がおられたのですが、左側の後ろにもう一人、お姫様のような方がおられるとのことでした。



そのお姫様が言うことには



🔶『真透さんは人の呪いを解く力がありますよ』



中川さん(このお姫様には、お稲荷さんが守っています)



🔶『(私は)武田の人です』



*このお姫様は、武田信玄の娘・松姫さまでした。


わたしも、中川さんも、松姫さまのことを存じ上げておりませんでした。




🔶松姫さまとは


『信松院さまのホームページより』


武田信玄公息女 松姫さまの生涯

松姫様 松姫さまは武田信玄の四女として永禄四年(一五六一年)九月にお生まれになりました。時あたかも父信玄は、宿敵上杉謙信と雌雄を決すべく川中島に出陣していたときであります。松姫さまは七歳のときに、織田信長の嫡子で当時十一歳の信忠と婚約いたします。当時の日本は戦国の時代で、とりわけ武田信玄の力が強大であり、新興勢力の織田信長も覇業を達成させんがために、信玄と縁故関係を結びたいと松姫さまと信忠との政略結婚を意図したのであります。
 元亀三年(一五七二年)、信玄は大軍を率いての宿願の上洛の軍をお越しました。その信玄の行く手に立塞がったのが徳川家康であり、浜松の北一里にある三方ヶ原で合戦が行われました。その時に織田信長は家康のために援軍を送ります。この合戦は信玄の圧勝となり、信玄は信長が家康に援軍を送ったことで、松姫さまと信忠との婚約を破棄いたします。ところが不幸にも年が明けた天正元年、信玄は旅の途中で病を発して没します。
 信玄の後を嗣いだ武田勝頼も時代の流れに抗し難く、天正十年三月、織田・徳川両軍の侵攻の前に天目山で討死、ここに甲斐源氏の名門武田家は滅亡するのであります。 扨てその時の松姫さまはというと、その年の正月に兄、仁科五郎盛信(信玄の五男で、信濃の名門仁科の家名を嗣ぐ)のすすめで、盛信の居城高遠城を訪れておられました。ところが織田の軍勢が攻めてくるという報せに、急ぎ甲府へ戻られます。その時松姫さまは、兄盛信の四歳になる督姫を連れ、さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫で四歳になる貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も伴います。護衛の武士に守られながら一行は、父祖の地甲斐を後にして見知らぬ他国の関東を指して落ちのびられます。
 そして幾多の難関の末にたどり着かれたのが、武蔵国横山宿(八王子)の恩方村で、一先ず金照庵という小庵に落着かれます。やがて松姫さまは、ほど近くに在る曹洞宗の名刹心源院に随翁舜悦卜山和尚(勅賜仏国普照禅師)を訪ねられ、禅師の下で剃髪されて仏弟子となられます。そして法名を信松禅尼と称されました。御年二十二歳であります。
 天正十八年、松姫さまは御自身の庵を持たれるべく、当時の上野原宿で御所水の流れも清い景勝の地、御所水の里へ移り住まわれます。そして庵を結ばれた所が現在の信松院であります。この頃の八王子は北条氏照の八王子城も陥落して、関東は徳川家康が管領するところとなります。
 扨て、御所水に住まわれた松姫さまは、武田一族の菩提を弔われる仏道精進の毎日でありましたが、その傍らには糸を紬ぎ、絹を織られたりして織物の技を里人に伝えられます。又、近隣の子供達には手習いを教えられたりして、土地の人々から大変に慕われ尊われて平和な日々を送られます。この時に松姫さまが伝えられた織物が、後世八王子織物として発展していくこととなったのです。
 扨て、関東へ入った家康は居城を江戸に定め、甲信への備えの為に八王子に千人同心を配置いたします。この千人同心は、元武田家に仕えていた旧臣達です。又、関東の総代官所を八王子に置き、総代官には大久保長安が任命されました。この大久保長安もかっては武田の家臣でした。異郷で新しい生活に従事する千人同心も、又、大久保長安も八王子に旧主の姫松姫さまがおられるということで、どれだけ心強く思えたことでありましょう。
 家康も、信玄の姫松姫さまが八王子におられるを知って寺領を贈り、時折に消息を尋ねたりしてなぐさめられます。
 天下を統一した豊臣秀吉も慶長三年に病没し、天下は家康のものとなり、ここに江戸幕府三百年の礎が築かれます。時は移り元和二年四月十六日(一六一六年)戦国の時代を力強く生き抜かれた松姫さまは、温かい人々に看まもられながら、眠るが如くに他界せられたのであります。御年五十六歳でありました。法名信松院殿月峰永琴大禅定尼。奇しくもその翌十七日には徳川家康も逝去せられて、後に日光東照宮に祀られます。この東照宮の守護に就いたのが八王子千人同心であり、それが明治維新まで続いたことは、松姫さまをめぐっての奇しき因縁とも申せましょう。


*****************




🔶松姫さま『武田が野蛮で醜くて、それがずっと嫌でした』



🔶『力の正しい使い方を正すお役目が上杉謙信公にはおありだったと思います』



🔶『力というのは、権力を誇示する為にあるのではなくて、みんなの為に使っていくもの。

それが正しい力の使い方だと思います』



🔶『正しい力の使い方を武田が知っていたのなら、大勢の人の命が奪われることもなくて、滅びることもなかった』



🔶『毘沙門天様の正しい戦い方、正しい力の使い方を伝えて欲しい』



🔶『私は敵陣に今やってきたようなものです。

でも恥を忍んで来ています』



🔶『私の父のしたことは、とても許されることではありません』



🔶『父の代わりに武田の為に亡くなった人々の慰霊や救済をしています』



🔶『恥を忍んでお願いに参りました』



🔶『正しい力の使い方を知っている人が、それを伝えるしかないのです』



🔶『その為に、あなたの所に参りました』



🔶『(武田軍について)亡くならなくてもよい人達が沢山亡くなってしまった・・・洗脳されて突撃させられていた』



🔶『祈りの無い力の使い方はケダモノ同然』



🔶『ここまで伝えれば、あなたには分かるはずです』



中川さん(この方は尼さんなんですね。袈裟を掛けていらっしゃいます)



🔶『武田は無双になることのみに拘っていたけれど、徳川は無双を目指していなかった。

私は徳川の方が正しいと思う』


*松姫さまは、八王子に移ったあと、徳川家康の庇護を受けていました。

また、家康の孫にあたる、名君・保科正之を姉の見性院と共に養育したと伝えられています。



中川さん(松姫さまと、真透さんの思いが似てらっしゃるんじゃないかと思うんです)



🔶『私の思いに耳を貸しては貰えませんか?』



🔶『真透さんの目指す世界と、私の目指す世界が同じだけですよ。


それは敵も味方もない、2元性を超えた世界ですよ。


1つになっていく世界ですよ。


個人の慰めのために、ひとが巻き込まれて、翻弄されてはいけない。


一人の思いの為に、そこに人生を巻き込まれる人があってはならない』



中川さん(松姫さまが生きていた時と、真透さんが似ているということをおっしゃってるんだと思います)



🔶『それは恥というものに巻き込まれたという所が同じですよ』



*私や親は以前、身内の為に迷惑を被った経験をしています。



🔶『ここを共に変えましょう。


一個人の思いに翻弄される人がいること自体が、あまりにも理不尽で。

惨めだとか、恥だとか、そういう呪いを解いていく必要があります。


親兄弟と自分は違う人格なのに、そこに巻き込まれるとか、理不尽な悲しみを抱えて生きるだとか、トラウマとか、そういうものを解消していきましょう』



🔶『真透さんの、そのトラウマを解消出来たら、他の人のトラウマも解消出来ますよ』



中川さん(今までそこにあまり触れてこなかったと思いますが、そこを見る時ですよ、という感じです。

真透さんは今で、松姫さまは戦国時代で、時代は違っても同じようなトラウマを抱えた経験があるようです)



🔶『その悲しみとトラウマを癒す時ですよ』




⭐️2024年1月7日、前回から引き続いてのセッション⭐️



中川さん(あれから松姫さまのことをお調べになられましたか?

真透さんと松姫さまと共通点はありましたか?)



私「家族に翻弄された点は共通していると思いますが、松姫さまがあの時代に経験したことと比べたら、私の経験は大したことではなく、小さいことです」



🔶松姫さま『決して小さくなどありませんよ。


小さくないし、あなたはその場所に身をおき続けました。


私もあの当時、いろんな人にそのこと(武田家が滅んだこと、婚約者を本能寺の変で失ったこと)を知られて恥をかきました。


あなたもそのことを物凄く耐えたのですよ。

分かっていますか?


その悔しさとか、悲しさとか、他の人が味わったことのない恥にも全部耐えて生きてきたことの意味が分かりますか?


さらし者になっても、恥をかいても、そのままであり続けた。


逃げずに生き抜いてきました。


そこが私と凄く似ていますよ』



中川さん(真透さんは、松姫さまの人生について、どう思われましたか?)



真透「政略結婚で7才で織田信忠と婚約して、やっと直に会えることになり、京に向かったのですが、その途上で本能寺の変が起こり、信忠も命を落としたので、八王子に移り、出家をされ、他の男性とは結婚しないで節を守りました。

また、保科正之という名君をお姉さんと養育したり、武田家の旧臣の為に尽力した方で、尊敬出来る女性です」



中川さん(松姫さまも、真透さんを尊敬していらっしゃるんだと思います。

敬意を讃えて・・とういうことだと思います)



🔶松姫さま『はい、その通りですよ。


時代に翻弄された・・


時代とはいえ、なかなかなかなか、耐え難いものがありました』



中川さん(自己犠牲から自由になっていくということだと思うんです)




🙏仏門のススメ



🔶松姫さま『なぜあなたは仏門に入らないのですか?


私は仏門に入ってからのほうが、とても楽でしたよ。


なぜなら、生き方に迷いが無くなりました。


娘としてこれで良かったのかとか、お相手の方に対して、これで良かったのかとか、


現世(娑婆の世界)に身を置いている間は、とても迷いが多くて苦しかったのです。


けれど、仏門に入ってからは、もう生き方がたった一つ、その道さえ信じていればいいという生き方に変わったので、本当に楽になったのですよ』



🔶『祈りの人生に変わったら楽になったのです。


愛されようとしていた時は大変だったというか、娘としての役割で生きていた時は、物凄く大変でした。


ただ一心にお経を唱えて祈る、そういう世界に入ったら全てが空になりました。


その時に、全てのしがらみが解けました』




🔶『そこに入るか入らないかで、あなたの人生はまるで変わりますよ。


 世俗的なものに属するか、それとも祈りの人として、即身成仏するかによって、全然見える世界が変わりますよ。


わたしは最初、尼さんになる時に、ワクワクもしたけれど、正直ちょっと嫌だなと思いました。


わたしは人にはあまり言えませんが、自分で自分のことを可愛らしいと思っていました。


だけれども、出家した先では、そういうことの喜びが得られなくなった時に、支えが無くなってしまうようで、少々こわかったことを覚えています。


けれど、そんなことは、本当に小さな小さな取るに足りないことだったのだと、仏門に入ったあとに気づきました』



🔶『あなたも、そちらの方に向かうと、もっと本当の意味でどんどん救われますよ』



🔶『自分のことを少々可愛いと思っていた自分は、たったそれだけのことでしか救われていなかったんだと気づきました』



🔶『可愛い部分だけが自分の支え、たったその支えしか自分にはなかったんだということに気づきました』



🔶『仏門に入ったあとで、自分の容姿だけが支えだったことが幼稚だったと思い、よくこれまで生きてこられたと思いましたし、それがかりそめの救いだったのだと、あとで気づきました。


それがなんだか、本当の意味で恥ずかしかったのですよ』




中川さん(松姫さまは、22才で出家したあとのほうが、本当に楽になれたみたいですよ)




🌌大日如来の話


中川さん「見せて下さるのが、真透さんは大日如来様と繋がっていらっしゃるようです。


大日如来様はすべての仏様を包含していますよね。」



🔶『毘沙門天様だけではなく、もっともっと沢山の仏様がこんなお仕事をしていて、それによって救われている人が沢山いてとか、そういうことを知ることが、あなたにとって最も救いになるのですよ。


なぜなら、大日如来様の大きさ、偉大さ、愛の深さ、それを持ったら、全部が取るに足りないことだという境地。


視座、視点が上がると、本当の意味であなたが求めていたものはこれだというものが掴みとれるのですよ』



🔶『この世に行きながら、般若心経の「波羅蜜多」の境地にいるのが、あなたにとっての自由ですよ。


般若心経の世界に移行すると、本当の自由になって、あなたの人生に彩りが出ますよ。


それは、お寺に入るということだけではありませんよ。』



中川さん(ただ、その世界に入る前に「恥」というものについて癒しが必要とのことなんです)



ここから亡くなった身内との会話が始まり、


要約すると、兄は前生、織田信長の家臣で、今生も信長の影響を受けており、その性格も生き方もそれを感じさせるものでした。


私は前世、上杉謙信公の家臣だったので、兄と反りが合わなかったのも頷ける話でした。


私は謙信公の参謀のようなことをしていたので、中川さんが、信長公と謙信公の参謀同士が兄弟でいらしたのだと思います、とおっしゃると、謙信公から訂正が入り、


🌕『織田は参謀など置いてはいなかった。

信長とその信者の集まりだった。』


とおっしゃいました。


松姫さまには、織田家の良くない所を正したいという思いがあり、


🔶『織田家は自分が一流であることにのみ力を注ぎ、


全員が一流でないと気が済まないという所がありました。


10か0か、一流かそうではないダメな奴か。


いっぽう、上杉は一流も良いが、そうではない人も導いていく、導き手、


あのようになりたいと思わせる導き方』



🔶松姫さま『織田家によって影響を受けた人々の御魂の救いの仕事をしています』



🔶『導きというのは祈りなんですよ。


祈りがあるから大きく物事を捉えて、世の中の為に自分がどうあれば良いかということを考えて行動出来る。


みんなの為にどうあるべきか考えて行動出きる。


織田家は自分が一流であるということが全てで、視座がそもそも違っていたのです。』



中川さん(大日如来様はこの視座を持っているのですが、信長は六道輪廻の畜生道にいて、いつも悔しがっていて、コンチクショウと言っている感じなんです)



🔶松姫さま『(お寺に入らなくても)お家で人々の為に祈ることほど、尊いことはないのですよ。


あなたは救われたいと思っていたかもしれませんが、本当は人々を救う立場だと気づいた時に、本当にあなたが救われるんですよ。』



中川さん(いま、お釈迦様が見せて下さるのが、寝釈迦になった時って感じなんです。


人がもっと自由になった時。

家柄とか会社とか学歴とか、そんなものから全部解放されて、本当は人はもっと清らかで自由なんだと、

別に一流でなくてもいいし、恥なんてないんだと。


こだわりから、とらわれから解放されたら寝釈迦のようになって、それでいいんだと分かったら救われる。


真透さんは本当は分かってるという感じなんです。


そこを思い出したらという感じなんです。


なので、お釈迦様に直接繋がるのでいい感じなんです。)



🔶松姫さま『一歩ずつ、待つのではなく、一歩ずつ進むのですよ。


織田家のやり方は、欲しいと思ったら全部取ってしまう。


有無も言わせず。


それが特権意識です。


だけれども、待つのも違います。


一歩ずつ、道に向かって進んでいく、それがとても大切なことなのですよ。


それが上杉らしさではありませんか。


導かれた人は導くことが出来ますよ。』



Q.宗派はどこが宜しいでしょうか?


🔶松姫さま『あなたが一番なじみ深い仏様はどなたですか?

一番最初に答えを出しましたよ』(大日如来のこと)




Q.(謙信公にも宗派について伺ってみると)


🌕謙信公『天台宗でもいい』


中川さん(尊重するといったかんじなんですけど、

真透さんが感じるロマンがあって、どちらにロマンを感じるかっていう感じなんです。

そのロマンで謙信公と真透さんが繋がっていたという感じなんです。

力の正しい使い方とか、戦での振る舞い方とか、そういうロマンを感じられる場所に身を置くと、充足感が得られるそうなんです。

それで決めた方がいいという感じなんです。)




前世の宇佐美定満の家の宗派が天台宗だったようです。

現在の我家の宗派も天台宗です。



調べてみると、天台宗では密教もあり、大日如来を拝むことは何の問題もないので、松姫さまと、謙信公のおっしゃることに矛盾はないことが分かりました。




中川さん(大日如来様って気さくな仏様なんだそうです。


野球で言えば、キャッチャーのポジションで、指示を出すだけではなく、自らも一緒にプレーするような。)




謙信公が、これだけは覚えておいて欲しいと、


🌕謙信公『誰を師とするか、信じるかで人生が左右される。


時に人生を狂わされることもある。


なので、人ではなく、神仏に直接繋がることが肝要である。』


と、おっしゃいました。





Q.謙信公は織田信長をどう思っておられましたか?


🌕謙信公『白○(表現が厳しいので、伏せさせて頂きます)


信長は、ただ轟かせることをのみ考えていた。


轟かせることの凄さ、無双であることの凄さ。


それを信奉する者だけを周りに置こうとしていた。』




そろそろセッションも終盤になってきたので、今日もお酒を酌み交わしましょうか。

と謙信公に申し上げたところ、



🌕謙信公『お酒もいいのだけれど、その前に般若心経を聞きたい。


わたしの為ではなく、能登半島地震で亡くなった人々や、被災した人々の為に一緒に祈って欲しい。


その後で、酒を酌み交わそう。』



と、おっしゃいました。



(セッションの後、隣町の大日如来様が御本尊のお寺で般若心経を上げて、謙信公とお祈りをさせて頂きました。)




Q.せっかくなので、松姫さまも一緒にお酒をいかがですかと、お誘いしますと、


🔶松姫さま『これまで、男性のお誘いに応じたことは一度もございません。


契りがございますので・・・』


と、おっしゃいました。


お二人のご様子を空から見させて頂きます、とのことでした。


契りとは、おそらく織田信忠さんのことなんだろうと思いました。


今も信忠さんへの愛情をお持ちなんだなと、感銘を受けました。



松姫さまは最後に、わたしの母親も気遣って下さいました。


『お母様のお体が冷えないようにしてあげて下さい。

冷えると体がキュッとなって、縮こまってしまいますので。』



松姫さまは、謙虚で控え目でお優しい女性ですが、さすが武田信玄公の娘らしい強さも兼ね備えている印象です✨



⛩️セッションの冒頭で中川さんが、松姫さまをお稲荷さんが守っていると、おっしゃいました。


松姫さまのことを調べている中で、松姫さまが開いた信松院の境内に、『穴守稲荷』のお社があることを知りました❗️🦊




☆7月に八王子の信松院にある、松姫さまのお墓にお詣りすることになりました🙏✨


そのお話は次回に続きます。


さらに御二人のかたが仲間に加わって下さったお話も✨


































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先日の中川真理さんのセッションのなかで、上杉謙信公が不動明王について語っておられました🔥




🌕謙信公


『不動明王のカルラ炎は、人の心の我欲、我の強さを焼き切る。


戦におもむき、人を殺めなければならない時に、これは我欲からなのか、それとも必要な成敗なのかを確認していた。


必要ではない成敗なら、命を粗末にしてはいけないと、いつも心に言い聞かせるために、不動明王をいつも心の中に持っていた。』




謙信公は、常陸の佐竹義昭に宛てた書状の中で


「わたしは、私利私欲のために弓矢は取らない。

ただただ、筋目をもって、どこへでも合力を致すまでである」


と記しています。



また、各地の神社への願文にも、同様の事を書いておられます⛩️



謙信公は毘沙門天を篤く信仰していたことは知られていますが、他にも沢山の神仏に祈りを捧げておられました🙏







川中島戦死者供養塔(上越市・林泉寺)


こちらの供養塔は江戸時代初期の元和9年(1623年)に建立されました。


当時の林泉寺の14代住持が、川中島に行ったとき、まだ川中島合戦の遺物が残っていたそうです。


その時受けた印象から、戦死者の供養をしたいと思われたようです。