武士の一分(06・日) | no movie no life

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・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

「譲らない心。譲れない愛。
人には、命をかけても守らねばならない一分がある。」


思い描いた人生が崩れ、信じていたものにも裏切られる。そんなとき、人は何を思い、どう動くのか。


海坂藩主の毒見役により失明した三村新之丞(木村拓哉)を、見えないことへの苛立ち、人に頼って生きていかねばならない武士としての情けなさ、今後の生活への不安が襲う。死をも考えた新之丞だったが、妻加世(壇れい)の愛情と献身から、少しずつあるがままを受け入れようと思いつつあった。


お互いがお互いを想い、かばい合い、添い遂げようとする。
「私たちは夫婦ではありませんか・・・」
そこには深い深い愛があふれていた。


それゆえ、その「信じていたもの」から裏切られたときの憤り、悲しみにはどうしても我慢がならない。男してのプライド、武士としての義。新之丞は加世を離縁し、新之丞は妻をたばかった島田と果し合いをする。盲目ながら、その剣は島田の腕を斬る。果し合いは新之丞の勝利に終る。


しかし、新之丞は呟く。「このまま長生きをして、何のよいことがあろうか」
心の闇は晴れない。


闇を晴らせることができるのは、加世の存在だけだったのだ・・・


思い描いた人生が崩れ、信じていたものにも裏切られる。

現代に生きる我々にも、多かれ少なかれ、このようなことが降りかかることがあるかもしれない。
けれど、どんな立場であろうとも、人間としての誇りを忘れない、藤沢作品の描く人物像は相変わらず素晴らしいと思う。
「このまま長生きをして、何のよいことがあろうか」
「命をかけた」果し合いに勝ったが、自分に残ったこの「命」をどうすればいいのか?そのジレンマ。
生きることが酷なことであることも確かだからだ。
命を絶つという選択も、私は否定しない。
しかし、命を絶った後に、その苦しみは、誰かにそのまま移るだけではないか?とも思うのだ。



さて、映画は、新之丞の心の変遷をうまく捉えていると思った。特に眼光が、全く違うと言うか、凄みがあったと思う。
しかし、注目の「果し合い」の場面は迫力に欠けていると思った。もうちょっと時間をかけてもよかったのではないかなあ?
それから、新之丞と加世についても、幼きころの事情がありそうだったが、何故二人が夫婦となったのか、その辺の描きがなかった。それゆえ、「夫婦の絆」というものへの訴えかけが私には足りなく感じた。


原作は読んでいないが、その辺はもうちょっと書かれているのでは?と思った次第である。


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