10月に入りましたね
光陰矢の如しですが。
いつもながらのことで、、一年が残り少なくなるとひしひしと感じます。
どのような時でも
それは、どのような時でも同じことですが。
健康でも、普段は当然ぐらいにしか考えないので、自分や周りの人が病気やケガをはじめ不具合なことが起きれば、どのような心配事も深ければ深いほどに、健康時の幸せを有難く思うものです。
只、病気1つしたことがないという人もいるように、人の運命もあまりにも差別があることは否めません。
世の中が進む中で基本として考えられている基準は、健康である人をベースにしています。おかしな言い方ですが、それでもって、すべてが進んでいきます。
これが思考の基準だから、同じことは何度でも起きるわけです。
要は、よりよい生活を行うための目標は高くあるべきなことは言うまでもありませんが、元となる物事の思考基準はもっと低い点に置くべきだという事です。
その意味で、健康を考えるときは、普段健康であること自体を当然と考えないという考え方に終始するという事になります。
いわば、日々健康であるからこそ、色々なことが行えることに感謝し、それを維持することがいかに大切かを知りえないと生活は成り立たなくなるという事です。それを「体が資本」という言葉で表します。
また、お金も同じです。
生活するに際し、この世はすべて金であることに誰も意義は致しません。
ただ、お金は、働いてこそ得られるものであることを学ばないと、その価値は、「お金はいくらあっても足りない」だけに終わります。
目前の現状だけに終始しているからです。
勿論それは事実です。お金はいくらあっても足りません。
しかし、今日得られたお金の意義を感じてから(≖感謝してから、考えてから、)頂くのとは、使い方に対しても違ってきます。
ふだんそのように意識するのとしないのとでは、性格の違いもありますが、健康で生活ができる時とそうでなくなった時の生活の仕方に違いが出てくる時と全く同じになります。
私たちは常日頃そのようなものの考え方を一々することは少なく生活しており、生活が成り立ちにくくなると、考えるのです。
このような思考はたやすく楽な方に陥るので、何度も同じ過ちを繰り返し「またか」とか「歴史はくり返す」という言葉が使われます。
「よりよい生活」とは?人によっても考え方(レベル)は違いますが、基本路線はおなじでしょう。