談志が死んだ。生前、立川談志(たてかわ・だんし)さんが高座でよく口にしていた回文が現実となってしまった。11月21日、落語の立川流家元・5代目立川談志が喉頭がんのため逝去。75歳だった。
立川志の輔や立川談春、立川志らくら幅広い活躍を見せる実力派の弟子を数多く育て、また、談志さんを慕ったビートたけしや高田文夫ら芸能人の弟子も数多い。東京都知事の石原慎太郎とも深い親交があった。
現在も続く人気長寿番組『笑点』(日本テレビ系)のコンセプトを考案し、初代司会者として番組にも出演していた(現在の桂歌丸は5代目司会)。ただ、当時の大喜利は、「飲酒運転はなぜいけない?」というお題に、「轢(ひ)いたときの充実感がない」と答えるなど、現在のふわーっとしたお茶の間向けの雰囲気とはひと味違う、ブラックユーモア満載のコーナーだった。
1970年代には自民党所属の参議院議員としても活動し、沖縄開発庁の政務次官も務めた。しかし、沖縄訪問の際、二日酔いの状態で会見に現れ、「酒と公務とどちらが大切か」と問われると、「酒に決まってる」と答え、あっさりと政務次官を辞任。政界でも“談志流”を貫(つらぬ)いた。
しかし、ただ乱暴なだけではない。10年ほど前に談志さんを取材したあるライターが、そのときの様子をこう振り返る。
「取材を依頼すると、先方から上野のすし店を指定されました。約束の時間の10分前に到着すると師匠はすでに来ていて、取材をお願いされた立場にもかかわらず、座布団を用意したり、店員に人数を伝えたりと入念にセッティングをしてくれていたのです。
それだけでも驚きですが、取材が始まってすぐのこと、若い店員が醤油皿の数を間違えて置いたんです。すると師匠は猛烈に怒り、取材を途中で切り上げ、帰ってしまった。仕方なく店を出て歩いていると、偶然、師匠に再会。私たちに気づいた師匠は自ら駆け寄り、『さっきは申し訳ありませんでした』って頭を下げるんですよ。面食らいましたね」
談志さんの孫弟子としては、初めての真打ち昇進が内定している立川志ら乃氏も思い出を語る。
「私が前座から二ツ目に昇進する試験を受けたときのこと。『道灌(どうかん)』という落語を家元の前でやらせていただいたのですが、そのとき家元が私に向かって『それだ! 俺の目の黒いうちは、そういう落語をやっていろ!』とビックリするようなお褒めの言葉をいただきました。ただ、その直後に『親子酒』をやったら、噺(はなし)の途中で『ヘタクソ!』と叱られましたね」
雑誌『BART』(1991~2000年)で、家元の連載に関わっていた週プレの元編集長、田中知二はこう振り返る。
「あるとき、連載の内容について謝罪をすることになり、国立演芸場に行ったら、その場でむちゃくちゃ怒られました。でも、最終的にはなぜか『じゃあ、旅行に行こうぜ』ってことになった。
それで一緒に香港に行ったのですが、食事が包子(パオズ)しばり。餃子とか小籠包とか。ポーチにマイ調味料まで持ってる。さすがに朝昼晩と全部包子だと飽きますよね。それでも師匠は『包子ならいくらでも食えるな』と言っていたのですが、本当は飽きているのではと思い、『あの店のゆでた甘エビっておいしいんですよね』って何げなくつぶやいたんです。そうしたら、『そうだな、うまいよな』って。で、その日はずっと甘エビ。師匠もやせガマンしていたんです(笑)。でも、それが師匠のダンディズムかもしれません。フカヒレなどの高級中華へのアンチといいますか。
連載の締め切りも必ず守るし、手書きの文字も丁寧。本質はちゃんとした人で、乱暴なイメージを狙っていたところもあるのでは」
家元と交流のあったあるカメラマンも、世間が言うような破天荒なイメージはあまりないという。
「インタビュー中でも、カメラを意識したアクションをして盛り上げてくれました。(晩年の)体がつらくて声が出ないときでもそう。目の前でインスリンの注射をおなかに打ってみせてくれたこともある(笑)。オシャレでこだわりのあるエンターテイナーで、とても撮影しやすい被写体でした」
今から4年前、週プレで行なった爆笑問題・太田光氏との対談で、談志さんは「死」について、「『談志が死んだ』で泣いてくれる奴が多いのか、『ザマアみろ』って奴が多いのか。ただ、それを自分じゃ確かめられないからな」と語っていた。
立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。その戒名に笑って泣いて、ご冥福をお祈りします。
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1970年代には自民党所属の参議院議員としても活動し、沖縄開発庁の政務次官も務めた。しかし、沖縄訪問の際、二日酔いの状態で会見に現れ、「酒と公務とどちらが大切か」と問われると、「酒に決まってる」と答え、あっさりと政務次官を辞任。政界でも“談志流”を貫(つらぬ)いた。
しかし、ただ乱暴なだけではない。10年ほど前に談志さんを取材したあるライターが、そのときの様子をこう振り返る。
「取材を依頼すると、先方から上野のすし店を指定されました。約束の時間の10分前に到着すると師匠はすでに来ていて、取材をお願いされた立場にもかかわらず、座布団を用意したり、店員に人数を伝えたりと入念にセッティングをしてくれていたのです。
それだけでも驚きですが、取材が始まってすぐのこと、若い店員が醤油皿の数を間違えて置いたんです。すると師匠は猛烈に怒り、取材を途中で切り上げ、帰ってしまった。仕方なく店を出て歩いていると、偶然、師匠に再会。私たちに気づいた師匠は自ら駆け寄り、『さっきは申し訳ありませんでした』って頭を下げるんですよ。面食らいましたね」
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「私が前座から二ツ目に昇進する試験を受けたときのこと。『道灌(どうかん)』という落語を家元の前でやらせていただいたのですが、そのとき家元が私に向かって『それだ! 俺の目の黒いうちは、そういう落語をやっていろ!』とビックリするようなお褒めの言葉をいただきました。ただ、その直後に『親子酒』をやったら、噺(はなし)の途中で『ヘタクソ!』と叱られましたね」
雑誌『BART』(1991~2000年)で、家元の連載に関わっていた週プレの元編集長、田中知二はこう振り返る。
「あるとき、連載の内容について謝罪をすることになり、国立演芸場に行ったら、その場でむちゃくちゃ怒られました。でも、最終的にはなぜか『じゃあ、旅行に行こうぜ』ってことになった。
それで一緒に香港に行ったのですが、食事が包子(パオズ)しばり。餃子とか小籠包とか。ポーチにマイ調味料まで持ってる。さすがに朝昼晩と全部包子だと飽きますよね。それでも師匠は『包子ならいくらでも食えるな』と言っていたのですが、本当は飽きているのではと思い、『あの店のゆでた甘エビっておいしいんですよね』って何げなくつぶやいたんです。そうしたら、『そうだな、うまいよな』って。で、その日はずっと甘エビ。師匠もやせガマンしていたんです(笑)。でも、それが師匠のダンディズムかもしれません。フカヒレなどの高級中華へのアンチといいますか。
連載の締め切りも必ず守るし、手書きの文字も丁寧。本質はちゃんとした人で、乱暴なイメージを狙っていたところもあるのでは」
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「インタビュー中でも、カメラを意識したアクションをして盛り上げてくれました。(晩年の)体がつらくて声が出ないときでもそう。目の前でインスリンの注射をおなかに打ってみせてくれたこともある(笑)。オシャレでこだわりのあるエンターテイナーで、とても撮影しやすい被写体でした」
今から4年前、週プレで行なった爆笑問題・太田光氏との対談で、談志さんは「死」について、「『談志が死んだ』で泣いてくれる奴が多いのか、『ザマアみろ』って奴が多いのか。ただ、それを自分じゃ確かめられないからな」と語っていた。
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