派遣OL、ピンク業界に入る!?その2 | AVライター★アケミンブログ

派遣OL、ピンク業界に入る!?その2

前回は、
2002年の年末、並木橋のアマランスで
パンチ監督と知り合ったことが
業界入りへのきっかけになった…
というところまでお話した。

しかし、そもそも何が当時、
普通のOLだった私を吸い寄せたのか?
今回は、その前段階となってしまうが
その奇妙な信号を受信した私のアンテナ、
そのルーツについて書きたいと思う。

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ここに一枚の写真がある。



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高校の卒業式で答辞を読む私の姿だ。

そう...
何を隠そう…

総代
…つまり



学年一位だったんだよねええーーーーーー!
高校時代は頭よかったんだよねえーーーー!






いや…
調子乗ることでもなんでもないのだ。
謙遜しているとか、カッコつけてるとかじゃなくて。

私は皆さんご存知のように
「頭がよい」とか「天才」という類いの人間ではない。
頭がキレたらそれこそ今ごろ、会社を3つも4つも持っている。
現に頭のよい同級生は
東京大学の地震研究所で助教していたり
弁護士や官僚、医者になっている。

私は単に学校の教科書の勉強をしていただけ。
親が厳しかったというのもあるけれど、
受験したくなかったし、大学の推薦がほしかった。
誰の文句も付けられないくらい
学校の勉強ができていれば
多少校則を破ってルーズソックスを履いても
最後のころは何も言われなかった。(やな生徒だな…)
学校の勉強は、音楽とか聖書とか、
みんながたいして勉強しない教科を
あえて狙って丸暗記して
テストに臨んで毎回100点取ってれば
そりゃ通信簿はよくなるわけで。

誤解をおそれずに言えば、
こんな暗記なんて作業はダサい。
私が憧れる「頭が良い人」がやることじゃない。

そして高校の勉強は、
「やればやっただけ数字で結果が返ってくる」
というのがクセモノだ。
「食べなければ食べないほど体重が減る」
という拒食ニュアンスたっぷりな
ダイエットと似た中毒性がある。

要は私は「勉強中毒」だったのだ。
「勉強さえしてれば親からも先生からも怒られない」
「勉強さえしていれば希望の大学に入れる」
「勉強さえしていれば面倒な友達関係のことも考えなくて済む」
だいたいこんな感じで思春期をこじらしていた。
唯一の希望としては
「大学入ったら、パーマやメイクも夜遊びも解禁」
という親との口約束くらいだった。




そして晴れて入学した第一希望の大学。
入るのにもまぁ難しいだけあって
入ってからも「校内でダントツ授業内容が厳しい」と言われるほどだった。
(校内の自殺者の数は、この学部がダントツという噂まであった…マジかよ)
一年生のときは
月曜から土曜まで一限からみっちり授業。
もちろん出席もフルにしなくてはならないし、
レポートや論文も毎週のように出てくる。
全て英語で行われるディベートやディスカッションにも
積極的に発言しなければならない。
確かに希望して入った学部学科だった。
だから1年のときはなんとか48単位全てオールA。
第一希望で入った意地だ。



けれど、なんかもう限界だった。


欧米教授陣のやたらオシの強いノリも苦手だったし
そもそも人を押しのけて
意見言う人が評価されるというスタンスを
「サムイ」と思ってしまった自分がいた。
(特に9.11以前だったからか
アメリカ人は米国がNo1!みたいな雰囲気でやたら強気に見えた)

しかし少し周りを見渡してみると
新しい趣味に没頭する他学校の生徒や、
バイトや恋愛を謳歌する他学部に進んだ高校の同級生。
逆に何の疑いもなく嬉々として勉学に励むクラスメイトたち。
同年代ではHIROMIXが
「最年少」で色んな賞を受賞して
パルコで個展を開いたりしている...そんな時期だった。



え…私、なにやってんの?
まだ頑張らないといけないの?
つか、今まで頑張っていたはずなのに
自分、なにやってたんだろう???


そんな感じの不安と焦燥感と自己嫌悪、
どこにぶつけていいか分からない苛立ちと不満が
ごちゃごちゃになって身体を徐々に蝕んでいった。
とはいえ「どれだけ辛かったか」
「私ってかわいそうだったでしょ?」ということを書くのが
このブログの目的でもないので
この辺はちょっと割愛させていただくとして。


要は「適応障害」。
私にとっては人生初めてでも、世間的には
「一生懸命、受験勉強をした子が
こじらせちゃったありふれた挫折」
だった。



しかし、一旦、そうなってしまったら、
病んで行くスピードというのは容赦ない。
暗黒時代、突入である。


朝起きること、電車に乗ること、
ゴハンを食べること、
夜寝ること、
「普通のこと」が「普通に」できない。


ウツ、過食、拒食、心配してほしくてのなんちゃってリスカ…
言わば世間一般の”納得したい人たち”が
AV女優に抱く病みの要素は
この時期に自らの身をもってある程度、さわりだけは経験した。
(借金問題はないけど)
だから今でも、
AVをやる子がたまに持っている
そういう系のダークフォースに
ついつい共鳴してしまうのかもしれない。


まあそんな状態なので当然、学校は行かなくなった。
ゲンスブールの暗い歌を友達としてみたり、
ハシカのようなフレンチ熱をこじらせて
GarciaMarquez/CrystallBallの前身である古着屋「Baldot」の
フレンチ古着ツアーに行ったり、
とにかく体調の許す限りフラフラしていた。
そんなある日、一枚のフライヤーを手にした。


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西麻布YELLOW(今のELEVEN)で行われていた
「STOLEN JAZZ IS COOL JAZZ」というイベントである。
小西さんや仲さんという今見ても豪華なゲストのイベント。
全く知り合いもいないし、
YELLOWだって常連じゃない。
しかし「これは行かないと!」
と私のシックスセンスが告げてくれたのだ。



そして、その直感は見事的中した。
自信を持って今も言える。


そこで出会った友達と音楽は、
当時の暗黒時代真っただ中の私にとって、
なによりの薬だった。
夜の闇も少しだけ怖くはなくなった。
(朝が来るのがなによりも寂しかったけど)
「友達」と言うものを少しずつ理解したり
人との関わりというものを勉強した時期だった。


そのかわり休学していた関係もあり
当然、就職活動には完全に乗り遅れた。
そしてその時点では
「英語を駆使して世界を相手にバリバリと働くキャリアウーマン」
という中学時代に描いていた自己イメージは
微塵すら残っていなかった。
会社という組織に属するということは
当時の私には恐ろし過ぎたのかもしれない。

そしてこの時代に
私の奇妙なアンテナが形成されたといっても過言ではない。


そういういわけで
卒業はできたものの、あえて就職もせず、
趣味の延長で
映像翻訳(映画の字幕)のアシスタントをしながら
お気楽な派遣OLとなり
そんな時、DJ友達に誘われて行ったイベントで出会ったのが
とんでもなくアウトローなAV監督という職についていた「パンチ監督」なのだ。


今回はかなりの量で、
自らの黒歴史を書いてしまったが
次回は、その出会いによって初めて見た景色や
「AV業界の何が、当時の私を吸い寄せたのか?」
そんなことについてぼんやりと書きたいと思う。






【写真は当時よく行っていたイベントのフライヤーの一部】

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