江戸を灰燼に帰した明暦の大火~江戸時代最大の火事は幕府の陰謀だった? | 歴史ミステリーへの誘い

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明暦3年(1657)旧暦1月、空前の大火が江戸を襲った。死者10万人ともいわれる明暦の大火である。実はこの大火は一つの火事ではなく、2日間に連続して起きた3つの火元による火事をいう。

まず、1月18日昼過ぎに本郷丸山の本妙寺から出た炎が強風にあおられて湯島、お茶の水の方面へ燃え広った。炎はさらに日本橋、八丁堀を焼きながら鉄砲洲へ進み、江戸の東側を灰燼に帰した。

翌19日午前11時ごろ、小石川伝通院付近の大番衆与力の宿所から新たに出火。火は江戸城北の丸の大名や旗本の屋敷に燃え広がり、炎は天守閣もろとも本丸も焼きつくした。さらに二の丸、三の丸へ延焼し、京橋、築地方面も焼け野原にした。

だが、これで終わりではなかった。同日午後4時ごろ、今度は麹町の町家から出火した。炎は江戸城の西南側に並ぶ大名屋敷を焼き、芝へ移動していった。

結局2日の間で、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺社350、橋60が焼失したといわれる。そのほか、おびただしい町家が焼けた。犠牲者は10万人以上という記録もある。

このように江戸時代最大の火事である明暦の大火だが、問題なのはこの大火にいろいろ不可解な点があることだ。

そのひとつが、出火元の本妙寺が罰を受けなかったこと。しかも火災後、多くの寺院が移動させられたにもかかわらず、本妙寺は動かずにすんだ。そればかりかその後、寺社奉行と個々の寺院の取次役である触頭職を仰せつけられ、寺としての格が上がっている。
そこで出てきたのが、火元引き受け説だ。本当の火元は本妙寺の隣にあった老中阿部豊後守忠秋の下屋敷だったが、老中の屋敷の失火が江戸の町を焼き尽くし、江戸城まで焼いてしまったとなっては面目が立たない。そこで本妙寺に罪を担ってもらい、見返りとして、本妙寺を優遇したのではないか、というものだ。

また、歴史家の黒木喬氏は著書『明暦の大火』で幕府陰謀説を唱えている。幕府が本妙寺の住職に命じ、わざと火を付けさせたのではないかというのだ。目的は何だったかのというと、江戸の再開発を一挙に実現するためである。

大火の前の明暦2年、老中松平伊豆守信綱を中心に、超過密化した江戸の町を一新する計画が動き出していた。

過密を解消するため町を拡張するには、密集した町家はもとより、寺院や武家屋敷も郊外に移転させなければならない。実際、当時現在の中央区日本橋人形町にあった吉原に対し、浅草か本所への移転が命じられていた。

しかし、1つひとつ交渉して移転費用の面倒を幕府が見ていたのでは、いつまでかかるか分からない。短期間で安価にかたをつけようとするならば、火事ほど都合のいいものはない。

江戸再開発計画が動き出した翌年早々、大火で江戸の町が灰燼に帰したのは、タイミングがよすぎるのだ。

いずれにしても、明暦の大火後、江戸の町は大きく変わっていくことになったのである。