これは以前、前期作品である『夏目友人帳』を視聴し終わった時の感想です。
妖怪と人間の交流ものなんだが、兎に角完成度が高い……ってのが基本的な印象。作画も高水準でドラマ性も非常に高い。音楽も素敵でEDはすんげぇ良い曲だなぁと思ってたら編曲が羽毛田さんで作曲も鬼束先生の仕事仲間だった人っぽい。道理で。
キャラクターも兎に角ニャンコ先生が楽しくて、ぶっちゃけ先生見てるだけで満足出来る気がする。あとキツネっ子の可愛さは異常。一人称が原作の「私」から「僕」になっているらしいが、あまりの可愛さに異類婚姻フラグを避ける為じゃないかとすら思える。
派手さやケレン味は無いが、手堅い作りで全年齢に幅広く楽しめて感動出来る作品だと思う。
それはそうと、どうも気になっていたのは「これは果たして妖怪モノなんだろうか?」という疑問。確かに作中は妖怪とされているのだが、あまり見た
こと無いようなのが多いし名前も聞き慣れない。思考回路もほぼ人間と同じ。人間臭い妖怪はマンガ的には珍しく無いけど、この作品は特に顕著だ。
更に作中深く関わる妖怪のデザインは、ただ人間がお面などで顔を隠してるようにしか見えなかったりする。
そこら辺を考えるに『夏目友人帳』は実のところ妖怪は添えモノで、コミュニケーションの有無こそが主題なんじゃないかという結論に達した。この作
品に於いて妖怪は人と全く異なる怪物ではなく「人間から3歩離れた隣人」なのだ。そして妖怪が見える夏目は「人間だが、そこから1歩離れた存在」である。
物語開始直後の夏目は、どちらからも差別される立場で本人もそれがコンプレックスで周囲から孤立してる。友人帳の名前を返そうという動機も同じ立場だったはずである祖母の生き方を追体験し、共有したかったからだ。
その中で妖怪たちや藤原夫妻、クラスメイトとの絆を作り上げ、夏目が自身の力を異常ではなく大切な能力だと受け入れる事が物語の帰結となるのだろう。
だから私としては、この話の中の妖怪はちょっと変わっててコミュニケーションを取りづらい人間の暗喩なのだと考えた訳だ。それは夏目の分身でもあり、彼は妖怪を通して自らの立場を再認識していく。
だから妖怪は伝統に拘らない形や名前をしていて、彼らの名を記した重要なアイテムも妖怪録なんかではなく友『人』帳と言われているのだ。
しかしながら、作品に妖怪愛が欠けているという事では全くない(実は最初の時点では疑ってました)
11話で登場したニャンコ先生の旧知の妖怪は猿猴といって伝統妖怪の系譜である。
京極風に言えば、「河童と同じ由來が多いが、猩々など猿系の妖怪の性質をより多く受け継いだ水怪」だ。当然デザインもそれに準じていて、猿を基調に背中にはウロコ(甲羅?)らしきものが見える。
また12話で登場したヒノエは恐らく飛縁魔が由来だろう。丙午に誕生した女性が男性を滅ぼすという謂われから出た妖怪だとさるが、本作ではそれを逆にしたような「男嫌い」という設定になっている。
またニャンコ先生の正体である斑は、白い獣の姿だったので九尾辺りが元ネタかと思ったのだが、調べてみるとそのまんま斑狐(まだらぎつね)という
妖怪が居る由。12話では他キャラのセリフと被っている為に聞こえにくいが「わしはキュービの……」と言っている事から「九尾の眷属」であるとも推察され
る。
つまり古い(力の強い)妖怪にはちゃんと由來を設定していて、オリジナル妖怪と使い分けているようなのだ。
こういう細かい芸当は好きじゃないとやらないだろう。
やっぱりこの作品、ソツがねぇ。
という訳で、多岐に渡って抜かりのない『夏目友人帳』は現在『続・夏目友人帳』として放映中。
見て損は無い一作です。