2005年 文藝春秋(文春文庫)
以前、どこかに書いたかもしれないが、読者が本を選んでいるというのは大間違いで、実際には本の側が読者を選ぶ。成長しない読者はいつまでも同じ水準の本だけを読むし、文盲レベルの知性はそもそも本を読めない。
憧れの人が読んでいるからとか、無理やりプレゼントされて手元に残ってしまったり課題として押し付けられる以外、やはり本との別ルートはなかなか開かれないのだ。
だから高橋源一郎も、そうそうたくさんの読者を持ってはいない。
我が憧れのインテリ源ちゃん。
親しみを込めてそう呼んでしまうのは、あまりに独自なその小説世界への憧憬の念がいつも胸の中にあるからだろう。
さて、そんな大好きなインテリ源ちゃんの作品をご紹介できるのは正直とても嬉しい。
とはいえ、このレビューブログの特徴として、「標準の範囲」にある作品はあまり取り上げないということがあり、本書もその常と同じように「標準の範囲」に収まっていない。
言い方を替えよう、読む甲斐があるというのは、その本が持つ世界にドップリと浸れるということだからだ。
その読み甲斐がガッツりある本は、やはり標準という基準では図れないのは当然だ。
ということで、本書は相当に癖もあり読み手も選ぶ。
見かけは短編集であるのでその中には相当にエロい作品も含まれるが、扇情的なエロチックさも銀座ライオンの紙カツのようなあっさりとしたペチャンコさがあって心地よいし、死者が集まっても幽霊譚にも都市伝説にもならない手際のよさにお見事!と声をかけたくなる。
その原因は、どうやっても川上から川下に水を流さないぞとばかりに、あらゆるサイフォンを取り付けて水はいつまでたっても形而上を流れるからだ。
全ては形而上の遊びとしてイメージワークが紡がれているからこその目くるめくファンタジー文学。
日本人がいくら怒鳴り散らしたところでソウルミュージックにはならないが、PCやシンセサイザーを通してよりファンキーな別音楽が作れるように、形而下を書かずして形而下を匂わすその手腕にいつも脱帽させられてしまう。
そして巻末の自筆解題では独自の世界を醸し出すタイトルの秘密まで明かしてくれていててんこ盛りの本書。
読み方によっては確かに相互に無関係なバリエーション豊かな短編集なのだが、しかしこれは1冊のゆるいゆるいつながりの長編と読むこともできそうだ。
というよりは高橋源一郎という長大な物語の一部として、全体を愛しむように読みたい本だ。