神様っていると思う?&本当にいるんじゃないか?と思った瞬間 ブログネタ:神様っていると思う?&本当にいるんじゃないか?と思った瞬間 参加中
子供の頃から神様の存在は身近なものでした。あと「こびとさん」と私が呼んでいる不思議な現象も神様現象のひとつだって思っています。

幽霊とか霊魂も信じている。カトリック信者の両親は、ちっちゃい頃は、自分の目に見えないものを感じてしまう私のことを「また、嘘いって!」と叱ってたけど、大きくなってからは逆に否定もされなくなってて。

神様の存在を信じられないというのは、とても幸せで神様を必要としていない人か、逆に絶望的にツイテナイことばかりで、神様がいるのになんで自分は、、、ってすねちゃっている気の毒な人ではなかろうか?

神社のお社でも、ご神体があるっていわれているところよりも、むしろ、大樹とか、ちょっと通りから離れたところで、そこにたってるだけですっきりできるって場所があります。神社の人にきくと、「実は」みたいな話。ああ、やっぱり神様はいるんだなって実感する不思議なエピソード。

クリスチャンが唯一神やイエス様だけを信仰しているって日本では、唯一神を信仰する宗教って説明していることがあるけれど、違うと思うんですよね。

世界の創造主である主が、世界で唯一の存在だったっていうことが、違うっていうか、聖書自体が矛盾だらけじゃないか!と思って、小さい頃は全然キリスト教って信じられなかった。

だって、しょっぱな、創世記の第一章の26で、もう既に神様が一人だけじゃなかったことがわかるのです。
神はまた言われた「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」

私は自分が使っている辞書が1955年訳版だから誤訳なのかな?と思って、また新しく購入したんですよ。最新版を。でもやっぱり、神様は「われわれ」って言ってます。
モンゴル語の聖書でも英語の聖書でもやっぱり一人称の複数形。

神様が唯一無二の創造主だっていうことじゃなくて、キリスト教なりユダヤ教なりは、その聖書に書かれている神様と「契約」を結んで永遠の命を約束され、戒律を守り、清く正しく生きましょう。そうすれば、たとえこの肉体が滅びようとも、いつの日か復活の日を迎えることができる。

そういうことなのだ、とつい最近、理解して、自分を納得させています。

聖書に矛盾があったり、自分の生活文化に適合しないから、信仰そのものがなりたたない、ということもないと思うけれど、聖書に書いてあることを鵜呑みにして、たとえば、理科や生物の時間での生物の進化についての授業をでたらめだ、ヒトは最初からヒトだったんだ!とかたくなに主張して先生を困らせたり、馬鹿にしたりっていうのも、現代社会で義務教育を受ける態度としてはいかがなものかって思う。

神様というのはこの世に生を受けた時に、母の体から抜け出して、産声をあげた時、一人の生物となったときに、心の中にそっと入って、標準スペックとして人間に備わっている存在なんじゃないかなぁ?

神様なのか守護霊なのかご先祖様なのか、よくわからないけれど、モンゴルでの長期滞在中に、大好きだった祖父が亡くなりました。その最初の年越しに、モンゴルから帰ってきた私を連れて両親が広島の実家に帰って、お墓参りをしつつ、お世話になっている方々に年始回りをしようとなった年末のこと。私は学部時代に大変優秀な成績でほぼ最短時間で普通自動車免許を取得しております。でも、そのあとすぐにモンゴルと日本を往復して仕事、仕事で埋め尽くされる生活で運転から遠ざかっておりました。

高速道路ものったことないし、チェーンの装着もやったことなかったです。

パンク修理はモンゴルで散々やってるから、別に運転してなくたってできるけど。

まぁ、そんなスーパーゴールドペーパードライバーな私が、東京ー広島間の実家までの約1000kmを父と交代で運転することになりました。
びくびくしながらも、体は覚えているし、マニュアルで覚えていた私にとってはオートマはゴーカートのように簡単。だから、普通の道路はそれなりに走れました。高速道路は歩行者がいないし、信号もないから、もっと簡単、、、だったはずなのですが、生まれて初めて80km超のスピードを出しているので、ちょっとくらくらでした。

でも、それなりに運転にも慣れてきたかなぁ、なんて感じになってきた頃、父が助手席でつぶやいたのです。
「あの高速バスを追い越してみよう」
教官状態の父がいうのだから、できるのかなぁ、と思って車線変更してアクセルを踏み込みました。
速度100km/時超でスムーズに追い越し。
さて、少々みぞれまじりで横風注意の標識も出ていることだし、車線を戻そう、、、

と、その時でした。

ウィンカーを出して、ハンドルを少しきって、車線に戻るタイミングを計っているときに、父が横からごちゃごちゃ言い出して、、、それに気を取られた瞬間に、、、

コントロール不能!

何が起こったのか今でもよくわからないのですが、全然ハンドルがいうこときかないし、タイヤが地面についている感触がないのですが、目の前の風景はすんごい勢いで蛇行しているのです。
宇多田ヒカルの「Traveling」よりもすんごい蛇行でびゅんびゅんしているのです。

父は「終わった」と天を仰いで絶望のため息。
後部座席でシートベルトをしている母は何も言わず、迫りくる衝撃に耐えているのが感じられます。

両脇はコンクリートの防音壁で囲まれていて、こんなにぶつかったら、ビリヤードの玉状態でがっこんがっこんにぶつかり、後ろから来る車両を巻き込んでの大惨事になってしまうことは明らか。

やっべー!

でも、視界はまるでスローモーションのように綺麗に流れているのです。真っ赤なテールライトとかがすごく綺麗なのです。

「ブレーキは踏むなよ!」と父の声が聞こえました。
マニュアルだったら、エンジンブレーキって使えるんだけど、オートマだと高速でギアを2速に下げるっていうのが効果的とは思えません。
あんまりコントロールがきかないハンドルを両手で握って、とにかく直進できるように、って前だけを見ていたのですが、一瞬、目の前に、コンクリート壁がキレてい、鎖状のワイヤーになっている中央分離帯が見えました。

「あのワイヤーに横っ腹をこすりつけて減速させれば止まれるはず」

思いついてからは、とにかく、「あっちへ行こう。あっちへ行くぞ。あのワイヤーが命綱だ。両親だけでも救う。絶対止める」と念じていました。

すると、きかないハンドルなのに、車体は不思議とすーっと滑らかにワイヤーに吸い寄せられるように近づいていき、バリバリーという衝撃を感じながらも、ワイヤーを横っ腹に食い込ませながら、減速していきました。
そして、どすん!という衝撃で、ハンドルが自分のお腹にぶつかるのを感じました。
前はぺちゃんこ。コンクリート壁が終点でした。

オートマ車は不便です。前がめり込んだ車体は電気系統がおしゃかになり、私は運転席の間に挟まれちゃいました。

父が「みんな、大丈夫か?」と安否確認する声が聞こえました。
「生きてるよ」「大丈夫」母と私。

事故の報告をするために、父は停車を示す三角マークをおいてから、びゅんびゅん車が走る高速道路を小走りに緊急電話のところに行きました。
すぐに父は帰ってきました。

母はシートベルトで首をすっているようですが、それ以外は誰も怪我ひとつしていません。

すぐにパトカーが来ましたが、最初の一言「嘘!生きてるよ!!」でした。
それほどひどい大破だったのです。

エアバッグなし、ABSなし、シートベルト以外、身を守るための安全装置のついていない年季の入った乗用車。

でも、レスキューの人がバリバリと私と一体となった車体を引きはがしてくれてわかったのは、私の足も全然平気だったこと。

「あと10cmのめり込んでたら、両足切断だったね」といわれてぞっとしました。

ちょうど道中の半分をすぎたあたりでの事故で、レッカー車の会社が社員の休息所を提供してくれたので、そこで一夜を過ごして、落ち着くことに。

父は「おれが馬鹿だった。俺が馬鹿だった。バカにハンドル握らせたおれの責任だ」と体育座りでおちこんでいました。
母は落ち着いたもんで、「まー、いいじゃない。みんな怪我もなかったんだから。年始回り用の一升瓶も無事だったことだし」

そうです。
衝突時は時速120kmでていたそうです。
でも、トランクの中でむき出しだった2本の日本酒1升瓶は、まったく無傷だったのです。

「神様とおじいちゃまたちのご加護があったからね。お墓参りは念入りにしましょうね」

その後、3月にまたモンゴル最北の最強シャーマンの大ババ様に会いにいった時には、タイガの人たちは、みんな私が交通事故を起こしたことを知っていたのでした。みんながいうには、「モンゴルだるまが事故を起こす直前に、エーレン(ツァータンの守護霊のよりしろのようなもの)が揺れたんだ。それでシャーマンはみんな精霊を飛ばして、君を守ったんだよ」

誰が守ってくれたのかは不明ですが、運転経験も未熟な私がわずか50mだけあったワイヤーにピンポイントで車体の横だけをすらせて減速、停車させられたのは、やっぱり神様か精霊か何かすごい守護パワーが働いたおかげだと思います。

時速120kmで50mをといえば、ほんの数秒で通り過ぎてしまうタイミングなのですから。

でも、あの瞬間はすっごいゆっくりで、うまくいかないわけがない、っていう自信があり、こんなところで死ぬことはないだろう、とちっとも死に対する不安はありませんでした。

結局、死を覚悟していたのは、理性的な父だけで、楽観的でむちゃくちゃ生への執着がある母は、「娘と夫が死んでも、私は一人で生きていける」と思っていたそうです。


普段からよいことばかりをしている、とか信仰心があついとか、事故の瞬間に神様に祈った、というような感動的なことは何一つありませんでしたが、それでもこの奇跡は、神様のご加護だ、とあとから思って感謝するようになりました。

いずれにせよ、神様が何かを特定個人に取りはからってくださる、ということはあんまり期待していないけれど、何が起こっても最終的にはハッピーに乗り切れる私たち一家の暮らしというのは、おおまかな意味で神様にのご加護があってのことであると感謝しています。

神様がついていて下さるから大丈夫っていうことは全然なくって、やっぱり事故るときは事故るし、怪我するときは怪我するし、病気にもなるし、失恋もするし、喧嘩や他人に裏切られたり、事業に失敗したり、受験で落ちちゃったりすることも、やっぱり自分自身の問題としてありえるのです。

でも、神様がいると信じる心があれば、少なくとも、孤独ではないし、なんかいいことが連続してあったときに、自分が傲慢にならないように、鼻持ちならない自信家にならないための手綱にはなると思います。

神様は自分にいいことをもたらしてくれる存在ではなく、自分が生きることを肯定的にとらえ、しんじられなーい!ってことや科学で証明できないことがあってもいいじゃーん、って思える不思議という余裕、奇跡という救いがこの世で実現するための人間が共通項として生み出した概念でもあるのでしょう。

ただそこに、いつでも、どこでも、誰にでも、神様はそばによりそっているけれど、それを感じるかどうかは、その人の心がけ次第ってこと。

でも少なくとも、神様は、誰かを殺したり、傷つけたり、誰かから何かを奪い取ったり、そんな行為を肯定するために存在するものではないこと。神様を信じないからといっても、誰かを迫害したり、軽蔑したり、差別したりするというのは、神様的な行動ではないってこと。

それだけは確かなことではないでしょうか?
神様というのは意外とシンプルで、いるって信じるだけで、自分の中にその存在をすごく確かに実感できるし、神様現象はいくらでもおきる。信仰心を失おうが、ぐれようが、それでもいつも神様はみんなのそばに平等にいる。

神様は、太陽が照らすように、呼吸が無料で誰でも24時間自由にできる空気があるように、誰にでも享受できる、生きるために必須の存在なのだと思います。