城下町のモデル策定~蒲生氏郷(1556~1595) | Money-Cruiser

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「世の中銭や」

蒲生(がもう)氏は、近江国の蒲生郡を名字とする古代以来の名族で、戦国時代には、この地の戦国大名六角(ろっかく)氏の重臣となっていた。永禄11年(1568年)、織田信長が攻めこんできたとき、当主蒲生賢秀(かたひで)は信長に属し、子の鶴千代を人質として差し出している。この鶴千代が氏郷(うじさと)である。


氏郷は信長に気に入られ、信長の娘と結婚し、信長の一門武将として将来を約束された形であったが、天正10年(1582年)の本能寺の変で事態は大きく変わった。結局、氏郷は急速に台頭してきた秀吉の家臣となり、同12年の小牧・長久手の戦い後の論功行賞で、伊勢松ヶ島城主12万石の大名となっている。


生まれが近江で、大名となった場所が伊勢だったということが、その後の氏郷の諸政策にあらわれている。近江も伊勢も、古来、商業の盛んな土地柄で、近江商人・伊勢商人を輩出したところだったからである。


天正18年の小田原攻めの論功行賞で、氏郷は伊勢から陸奥の会津に42万石で転封され、石高はさらにそののち92万石に増えている。


俗説では、秀吉が、将来、自分のライバルになりそうな氏郷を遠くに追いやったといわれているが、そうではなく、去就のはっきりしない伊達政宗の抑え、さらには、滅ぼされた葛西氏および大崎氏の遺臣一揆に対する抑えとして、大物を配置したというのが正しい。


氏郷は、蘆名義広(あしなよしひろ)、それを破った伊達政宗が居城としていた黒川城に入り、名を若松城と改めた。会津若松の誕生である。しかも、名を変えただけでなく、大がかりな町づくりに着手し、それが、いかにも商人的感覚から生まれていることが注目される。


それまでの城下町は、商人・職人の住む区画と武士たちの住む区画が特別に分けられていたわけではなかった。それを氏郷は、分けているのである。これを「士庶別居住区分」と表現しており、同業者が集まる商人町・職人町が形成された。これが江戸時代城下町の基準になっている。


こうした先駆的な施策に取りくんだ氏郷であるが、城下町経営と領国経営が軌道に乗りはじめた文禄4年(1595年)、残念ながら40歳の若さで死んでしまったのである。