向上心と開き直る勇気~伊達政宗(1567~1636) | Money-Cruiser

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「世の中銭や」

伊達政宗が父輝宗から家督を譲られたのは18歳のときで、70歳で亡くなるまで、前半は戦国武将として、後半は近世大名として奥州を舞台に活躍している。


政宗のすごいところは、常に向上心を持ち続けたことで、「もっと、もっと」という意識によって領国拡大をはかり、奥州のかなりの部分を版図に組みこみ、「奥州王」などともよばれるようになったのである。


天正17年(1589年)に会津磐梯山麓(さんろく)の摺上原(すりあげはら)で蘆名(あしな)義広を破り、会津を手に入れたところで、政宗にとっては意外な邪魔が入った。豊臣秀吉による天下統一の動きとバッティングしてしまったのである。


その頃、政宗は小田原城の北条氏政・氏直父子と手を結んでおり、徹底抗戦の構えをみせる北条氏と同調するつもりでいた。ところが、情勢を冷静に分析した結果、重臣筆頭片倉小十郎景綱の意見に従い、小田原攻めをしている秀吉のもとに頭を下げることになった。死装束で秀吉の前に出たのはこのときのことである。


こうして政宗は豊臣大名の一員となったわけであるが、そのままおとなしくなったわけではなかった。秀吉の奥羽仕置で滅ぼされた葛西氏および大崎氏の遺臣が起こした一揆、すなわち葛西大崎一揆を裏で扇動したとして秀吉に詰問されたこともあったし、豊臣秀次事件のときには連座させられる危険もあった。


秀吉によって切腹させられた秀次の重臣の一人が、政宗の元家臣だったこと、さらに秀次から政宗が餞別(せんべつ)などをもらっていたことが問題とされたからである。


そのとき、詰問に訪れた秀吉の奉行たちに対し、「秀吉様は、両方の目で見て、秀次公を関白にされた。片方の目しかみえない私が見損じたのは当然であろう」と、開き直りともとれる返答をしていたことが『武功雑記』という史料にみえる。


危機に臨んでこうした開き直りをすることは、相当勇気を必要とするわけであるが、政宗はそうした勇気とともに、前述した向上心を常に持ち続けていた。


関ヶ原合戦後、仙台藩主となった政宗は、領内を流れる北上川の流路を付け替え、それまで荒れ地だったところに水を引き、新田開発を行っている。これによって62万石の表高だけでなく、かなりの年貢収入を確保することができたのである。