生保への道(日本人学校と帰国) | 化学物質過敏症(CS)/反原発エコロジー

生保への道(日本人学校と帰国)

結局、母と子ども達は1年半で日本に帰国して、

父が再び単身赴任になった。


私が東南アジアに住んだ時期は、兄が中学生だったので、

中学生男子にとってのストレスは、日本よりも大き過ぎた。



暑くて四季がなくて、不便で娯楽がほとんど無い状態で、

日本の高校受験に向けて勉強させられた。


日本のような部活動もないし、エロ本を見られる本屋も無い(笑)。



「海外子女」の親たちは、大企業と公務員や教師ばかりなので、

親が子どもに高学歴を求めたが、日本人学校の教師は質が悪く、

デキない生徒には不親切だった。



だから、初めは兄が登校拒否になりかけて、

「日本に帰りたい!

埼玉の友達と遊びたい。


プラモデルやラジコンやゲームが欲しい」

などと愚痴を繰り返した。



そして、母は兄を心配したほか、弟の中耳炎の手術もして、

私の体調不良には全く無関係だった。


また、母自身が子どもの頃から病弱で、

外国でも頭痛や胃痛で寝込んでいた。



私は有機リン殺虫剤などの被害で、脳貧血の立ちくらみが始まった。


しょっちゅう鼻血が出て、口内炎や吹出物も多かった。


逆さ睫が生えて、目に当たって痛かった。



今考えると、子ども達が一時的に視力低下したのも、

有機リンの影響だろう。


私と兄は不眠症にもなったが、自宅軟禁のような生活で、

「運動不足」が原因だろう、と考えていた。



私が小学校6年になる時に、日本に帰国したけれど、

埼玉のマンションを他人に貸していたため、

母と子ども達は東京西部の社宅に住むことになった。



日本人学校の同級生たちは、全国各地から集まって来たので、

帰国したら皆がバラバラになって、二度と集まることはない。


私は子どもの頃から、そういう【一期一会】の人生観を、

身に付けざるをえなかった。



次は自分がどこに引越すか?

子どもには決める権限がなく、1年先もわからないのだ。


埼玉の友達が別の市に、転校してしまったことも多い。



「1年かけてジックリ様子を見て、それから友達になりましょう」なんて、

悠長なことを言っていたら、

1年後はクラス替えや転校で、その人と離れてしまうだろう。