生保への道(東南アジア編)
埼玉南部の新築マンションから、東南アジアの借家に引越して、
今までの家よりは広かったけど、
庭がほとんどなくて、部屋数も少なくて、
私は弟と同じ部屋だった。
父母も2階の狭い1部屋を一緒に使って、
兄だけが自分の個室をもらった。
しかし、兄は1人でつまらないと言って、
私と弟の部屋に布団を敷いて寝たりした。
日本人学校からスクールバスで、授業終了後にすぐに一斉下校して、
うちの子どもらは自宅軟禁に近かった。
同級生たちの家は遠くて、大人が自動車で連れて行かない限り、
子どもだけで遊びに行けなかった。
現代日本の子ども達とは違って、コンビニやゲーセンや駄菓子屋や、
立ち読みできる本屋などは無い。
テレビもラジオも雑誌も無く、たまに父が新聞を持って来たが、
大人向けでつまらないので、私は日本人学校の図書室で童話を借りた。
うちの父母は本も、たまにしか買ってくれなくて、
母に「図書館で借りなさい」と言われていた。
塾や習い事にも行かせず、「勉強は学校の先生に訊きなさい」と言われた。
幸いなことに、埼玉の叔母(母の妹)が引越し前に、
童話の本をダンボール2箱分、私に送ってくれたので、
東南アジアの家で1冊ずつ読んだ。
しかし、停電&断水が日常的にあって、
エアコンも止まって暑いし、虫が多くて汚いとか、
不便な生活で単調で、とにかく退屈だった。
日本の人々が誤解するような、「プール付きの豪邸に住んで、
メイドさん達をこき使って、贅沢な暮らしをしてる」なんて、
私の人生では一度もなかった。
父母と兄が殺虫剤や防虫剤をドッサリ使って、
私の【化学物質過敏症】が悪化した。
排気ガスの規制がないまま、自動車がどんどん増えたので、
硫黄臭い排気ガスの中を、毎日スクールバスで通学した。
日本と欧米の企業が、合成洗剤やシャンプーなどに、
濃い香料と着色料をタップリ入れて、臭いが強烈だった。
『味の素』などの化学調味料や、ポストハーベスト農薬も沢山使われていた。
今までの家よりは広かったけど、
庭がほとんどなくて、部屋数も少なくて、
私は弟と同じ部屋だった。
父母も2階の狭い1部屋を一緒に使って、
兄だけが自分の個室をもらった。
しかし、兄は1人でつまらないと言って、
私と弟の部屋に布団を敷いて寝たりした。
日本人学校からスクールバスで、授業終了後にすぐに一斉下校して、
うちの子どもらは自宅軟禁に近かった。
同級生たちの家は遠くて、大人が自動車で連れて行かない限り、
子どもだけで遊びに行けなかった。
現代日本の子ども達とは違って、コンビニやゲーセンや駄菓子屋や、
立ち読みできる本屋などは無い。
テレビもラジオも雑誌も無く、たまに父が新聞を持って来たが、
大人向けでつまらないので、私は日本人学校の図書室で童話を借りた。
うちの父母は本も、たまにしか買ってくれなくて、
母に「図書館で借りなさい」と言われていた。
塾や習い事にも行かせず、「勉強は学校の先生に訊きなさい」と言われた。
幸いなことに、埼玉の叔母(母の妹)が引越し前に、
童話の本をダンボール2箱分、私に送ってくれたので、
東南アジアの家で1冊ずつ読んだ。
しかし、停電&断水が日常的にあって、
エアコンも止まって暑いし、虫が多くて汚いとか、
不便な生活で単調で、とにかく退屈だった。
日本の人々が誤解するような、「プール付きの豪邸に住んで、
メイドさん達をこき使って、贅沢な暮らしをしてる」なんて、
私の人生では一度もなかった。
父母と兄が殺虫剤や防虫剤をドッサリ使って、
私の【化学物質過敏症】が悪化した。
排気ガスの規制がないまま、自動車がどんどん増えたので、
硫黄臭い排気ガスの中を、毎日スクールバスで通学した。
日本と欧米の企業が、合成洗剤やシャンプーなどに、
濃い香料と着色料をタップリ入れて、臭いが強烈だった。
『味の素』などの化学調味料や、ポストハーベスト農薬も沢山使われていた。