生保への道(住宅ローン) | 化学物質過敏症(CS)/反原発エコロジー

生保への道(住宅ローン)

(前の記事の誤字を訂正します。


完全品⇒完成品

完全予定⇒完成予定)



父は家を買う時も、色々な物件を見に行くのを、面倒くさがった。


初めに見た1~2件から、テキトーに勢いで決めて、

母が反対しても聞かなかった。



東京の最初の新築マンションを売って、

埼玉中部の新築一戸建を買った時も、


母が反対したけれど、父が無理やりローンで買い、

外国に引越してローン返済が難しくなった。



北東アジアで住んだ家は、小さな山の麓のマンションを借りて、

日本人は近所に少なかった。


私はそこで、殺虫剤や農薬の被害を受けている。



以前にも書いたが、伝染病や皮膚炎と鼻血が出たり、

よく悪夢を見て、めまいがしたりした。


また、私は右手親指だけの手術をするために、

4歳頃に一時帰国して、短期入院して全身麻酔で手術した。



母と子ども達が1978年に先に帰国して、

父が再び単身赴任になったが、埼玉の家を安く売却して、

買い主に我々が家賃を払って住んだ。



その後、父が米国に転勤になったので、

家族も米国に引越しすると言われて、

小学校1~2年の時は不安で仕方なかった(TmT)



私は北東アジアの幼稚園で、外国語が全くわからず、

母に「ダメな子」の烙印を押されて、


今度は英語が全くわからないのに、米国の小学校に入ったら、

私の人生は完全に終わりだ!!と思った。



結局、父が米国に単身赴任してから、東南アジアに転勤になり、

私は米国に行かずに助かったのである(笑)。


しかし、東南アジアの公害で、決定的に身体ダメージを受けることになった。



その前に、埼玉中部の一戸建を売った金で、

埼玉南部の新築マンションに引越した。


もちろん、30年位のローンだから、父母に貯金は無い。



ここでも建材の有害物質が充満していただろう。


私の最愛のシマリス、初代「りす子」ちゃんが、

1980年秋に急死してしまったo(T(●●)T)o