生保への道(引越し歴と住環境) | 化学物質過敏症(CS)/反原発エコロジー

生保への道(引越し歴と住環境)

私は田舎の自然の中で、親戚や友達に囲まれて、

伸び伸び育った「普通の日本人」ではなく、


主に埼玉南部の工業地帯で、人口過密のゴミゴミした所で育ちました。



埼玉北部と栃木の親戚たちとは、離れて住んでいたので、

普段は親戚付き合いがほとんどなく、


父が外国に転勤ばかりで、家族も引越しが続き、

地域社会との繋がりも希薄でした。



こういう環境では、父母も兄弟もストレスだらけで、

私は彼らの機嫌を取る係で、どこにも逃げ場がありませんでした。



実際、ほとんどが狭い集合住宅に住んでいたので、

自分の個室はもらえないことが多く、

私は中学1年まで弟と同じ部屋で、兄がいつも乱入してきました。



私が高校2年の時は、高校受験の弟に部屋を譲って、

私が家族の通り道の居間(リビング)に住んでいました。


生物学的に男子ではなく女子だったので、

トイレや風呂場の鍵をかけて、着替えなくてはならなかった。



幼稚園~小学生の頃は、和室に布団を並べて、

家族4~5人で雑魚寝でした。


一戸建の家に住んだ時も、狭い敷地で部屋数が少なかったのです。



私が生まれた所は、東京の新築マンションで、

建材の有害物質が充満していたと思います。


父がローンで初めて買ったのですが、

完全品の現物を見てから買わないで、

「○○年○月に完全予定」の建物を買ってしまいました。



その後、私が1歳になった頃に、母が弟を妊娠して、

埼玉中部の新築一戸建に引越しました。


もちろん、ローンで買い替えたので、父母の貯金はありません。



私は当時から、【化学物質過敏症】を発症していましたが、

記録は何もありません。


父が資源の輸入の仕事から、自動車輸出に部署が変わり、

家族も北東アジアに引越ししました。