先日、ある方からメールをいただきました。


私が、結婚を機に段々良くなっていったということで、具体的なことを…ということでした。

なので、思い出せる限り書いてみようと思います。


私は、結婚したから摂食障害が良くなったということではありません。

それは私にも分からず、もしかしたらその頃に良くなる運命にあったのかもしれません。


改めてなぜ過食がなくなったんだろう、いつなくなったんだろうって考えてみたのですが、分からないのです。。。

ブログの冒頭に、「治ってから10年近く」と書いていますが、よく、よく考えてみたら、本当に10年?って思うのです。どの辺で‘治った’と定義するのか分からないので、それは人それぞれの見方にお任せします。


心の病気が長い時間かかるのは、これっていう単発的な出来事が回復に繋がることは少ないからじゃないかなと思います。

私の場合も、これがっていうのではなく、長い長い間の積み重ねが気づいたらこういう結果になっていました。


何よりも一番大きいのは、自分の努力です。(自分の心の中を一生懸命見つめたことです)

そして、私の人生に欠かせないのが、旦那の存在です。

もうすぐ9回目の結婚記念日なのですが^^、出会って13年くらいになります。

昨日ふと思いました。“私は、もう13年もの間、心の底から私を認めてくれる人と一番近くにいるんだ~…”

旦那は、初めて私をそのまま、ありのまま受け入れ認めてくれたと実感できる(安心できる)人です。

親よりも、誰よりも精神的に近い存在です。(もちろん、子供も、近いよ^^)


でも、そう感じられるような素直さが私の心の中に現れてきたのは、ごく最近かもしれません。


旦那と出会った頃は、今の私とは全く違いました。私の中の本質は一緒なんだろうけれど、何かが邪魔をして素直な私を底に底に沈めてしまうって感じ。

でも、出会って間もない人に自分の嫌なところをさらけ出すことはしないし、元々彼とはフィーリングが合ったので、すぐに仲良くなりました。

知り合って早い時期に、私は摂食障害だということを言いました。

具体的には言えませんでした。私は、たくさん食べ散らかすということが恥ずかしくて、結局彼には(というか、人には)一度も「昨日過食してしまった」とかいうようなことは言いませんでした。

過食や、下剤を飲んで家から出られない時は、「用事ができた」とか「しんどいから」と言って会うのをキャンセルしていました。


旦那と共有したのは、‘不機嫌な私’です。

一緒にいれば、意見の食い違いとか、喧嘩とか、お互いちょっとした言葉で嫌な気持ちになるとかよくあります。

私は、とてもとても傷つきやすい性格だったので、相手がそんなつもりで言ったんじゃないのにってことでも、いちいち突っかかっていました。

もしもそういう時に、「じゃあいいよ!」とか、すぐに切り捨てる男の人だったら、私はすぐに別れていると思います。

私たちは、昔から、何か分かり合えなければ、何時間も何時間も一晩中でも話し合い続けてきました。

だから、私の気持ちの不安定な時も、彼はそれに付き合ってくれました。

今思えば、私のために色んなことを言ってくれてたんだろうけれど、私は「人には私の気持ちなんて分からない!」と素直に受け取りませんでした。

なぜかというと、当たり前のように彼には分かることが、私には分からない、できない、その反面私っていう人間は、人よりも上に立ちたい気持ちが大きかったから、見下されているようでとても悔しかったのです。


ちなみに、こういう性格が変わってきたのは、摂食障害が治った頃ではありません。性格が変わってきたのは、もっともっとゆっくり。

子供を持ち、その他様々なことにぶつかり、色々なことに対して“こんなのは大したことじゃない”って思えるようになってきてから。


彼と付き合った長い時間を短い文章に表わすことはできないし、とにかく想像以上の時間と精神力を、2人で、私の心の苦しみに費やしたと思っていただければいいと思います。



摂食障害がなくなる直接のきっかけとして一番近いのは、下剤をやめたことかもしれません。

それまで、1回15~20錠飲んでいた下剤。

結婚する1年ほど前に、強烈なお腹の痛みを感じ、結局原因は分からなかったけれど、私は多分下剤だろうなと一人で思っていました。

あまりにも痛みがきつかったので、これ以上服用することが怖くなって、努力しないでやめられました。

2~3錠飲んでしまう時はあったけれど、大量に飲むことはいっさいなくなりました。


多分、私は過食からやめたんじゃなく、‘浄化’からやめたんでしょうね。

私にとって過食は、儀式的なものもあったので、過食したいという以外に、過食して浄化(下剤)してすっきりしてから(リセットして)また生活を始めたいという気持ちがありました。

そのために、これとこれとこれを食べなければならないというのがあったし。

でも、完全に浄化しないとなると、完全な過食というのも存在する意味がなくなったのかもしれません。


徐々に、私にとって過食が、儀式的な意味を失い、過食(食べすぎる)にしても、食べることをやめるのを我慢できないから食べるというのに変わってきたのだと思います。


(段々思い出せたし、自分のことが分かってきました^^ 良かったです)


                                                      続く…




ワン読んでくださって、ありがとうございます。

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