旦那が栗をもらって来た。



今月2回目



1回目は気づかないふりをし、触ってもいない



2回目 私が気づいてないから故の?



「ねぇ、実は会社クビになってんのに、出勤してるふりして食料の足しにって栗拾い行ってんの?」




こうも栗持って来られても、栗使った料理って



栗ご飯とか、栗金時とか、渋皮煮ぐらいしかしらない



しかも、そのどれもが嫌い



旦那に、栗って面倒くさいんだよ?つっても通じないんですよ



皮むいて米にぶち込んで炊けばいいだけとか思ってくれちゃってるわけですよ。



その皮剥くのが面倒なんだよ!コンニャローと思いましてね。




作ってやろう、作ったうえでどんなに大変で面倒で、そんな作業の割りには普通の白いご飯の方がいかに美味しいか喋り連ねて、精神的に追い詰めようと思いました。




いざ作業に取り掛かり、もう1個目で 拷問か?と思ったよね。



あの渋皮、「鬼皮」とも呼ばれてるみたいだけど、本当「鬼」だな



昔の人のいうことに間違いはないなぁ~と感心すらした







⇡ こんな作業が永遠続く (画像は借 しかも画像のは簡単に剥けてる方)




2個目からは、ぃょぃょ栗ご飯の存在意義について考え始めた



戦後の時代に白飯の嵩増しに木の実入れたってやつだ・・・絶対



か、木の実主食の縄文の名残か



それをこの2016年に何が哀しくて木の実を剥いて白飯に入れるのよ



食べ物も、下ごしらえも超絶原始的なのに、最終的に文明の力 炊飯器で炊くて。



随所が正気の沙汰



縄文人がもし今タイムスリップしてきて、この様と栗ご飯見たら 「未来って・・・さほど変わんなくね?」つって帰ってくと思う




特に何一つ羨ましいとかなく、だからといって絶望までもしない。




ほんと「あー」しか無いやつ



ただのタイムスリップの無駄遣い



で、現代人の知識と技術を持っても後半には側面を大胆に切り落とすという剥き方に移ろいでいき、お前は希少部位かよ!と心で繰り返し「栗は野生の動物たちの食べ物です。」っていう結論にいたりました。



そんな途中で縄文人の方々にもゲストでお越し頂いた経緯のある栗ご飯ですが、







息子は栗を退かして食べ、私は我慢して食べ



旦那しか食べないそんなご飯



栗も米も・・・



そして私も泣いていたと思います。



旦那が帰宅しすぐに食いつきました



↑あ、旦那が栗ご飯にではなく、私が旦那にです



「ちょっと!栗剥くのすっごい大変だったから!1回やってみればいいよ!少年法とかで守られてるいじめっ子とかは栗の皮を剥くっていう刑に処すればいいと思ったぐらい、苦行。もう金輪際やらないから!つぎ栗くれるってなったらハッキリお断りしてきて。 断り辛いなら帰ってくる前に森や林に撒いてから帰って来て!」




旦那は、その夜もちろん栗ご飯でしたが、翌日の弁当でこれでもかってぐらい栗ご飯強制的に食べさせ、その日の晩御飯も旦那だけが栗ご飯  と、こっちも栗地獄の拷問。




栗は、外食でたべよう という今後一生役に立つ家訓が出来ました。