はじめまして。みぃの姉です。
闘病生活をしておりましたがH30年10月2日に亡くなりました。生前は本当によくしていただきありがとうございました。
約4年近くの闘病生活の中で、妹がこのブログを書いていることを1年ほど前に知りました。
ですがどんなブログを書いているのかは聞きませんでした。
携帯を弄ることが出来なくなってから、代わりに書いてほしいとお願いをされ初めてどんな事を書いていたのか知りました。
私には代わりに書くことは出来ないこと、みぃが元気になったら更新すればいいことを話しました。
そう言ってしまったこと、今は後悔しています。
ただ妹が言ったことを、代わりに打ち込むだけなのにね。
全部を読んだわけではありませんが、弱音をはいた日できっと終わらせたくなかったのかも知れません。
昔から、家族にも弱音を言わず、今やりたいことを、好きなだけする子でした。
2歳しか離れていませんが、自由すぎて羨ましかったです。
仕事も、みんながお前に出来るわけない。って反対されながらも、実現させるために18歳から家を出て1人で方法を見つけ20年近く続けてきて、その間に取得できる資格はなんとしても取る勢いで。そのためなら寝る間も惜しまない。
というか、ずっと寝れていなかったことを家族は誰も知らなかったんですよね。
友人にも話していなかったと思います。
ここでは話していたのかも・・・
妹には内緒でって担当医に呼ばれたときに、学生時代から眠剤を服用していたこと、鬱病だということ。そのことだけは家族には絶対に言わないでって妹が頼んだそうです。だから知らないことにしといて下さい。って。
なんでそこまで隠すの?何でそうまでして頑張れるの?どんな人生歩んできたの?
理解しようとしても理解できませんでした。
癌だとわかった時も、何回もの手術や辛いはずの治療中も大丈夫だからって笑っていました。
家族がこんなに心配してるのに、なんで笑って報告してるの?おかしくなっちゃたの?この子大丈夫?
ってずっと思っていました。
でも、2回目の手術が決まったころに妹が、私なら大丈夫だよ。今はね、1日をすごく大切に過ごすことができているし、楽しんでいるから。
この子、本当は弱いのに強いなって。
どこからその強さくるんだろう。
約2年前も。
1年もつか・・・って余命宣告された時も。
すごく難しい手術さえも怯えることなく。
今思えば、信頼関係なのかもしれないですね。
今までどんなことにも笑って耐えていたのに、検査も治療も手術ももうしないからねって涙流しながら笑って言い出したときはもうビックリでした。
たぶんその事が最後の更新です。
でもね、またやる気になってくれて手術に向けて前を向き出していたんです。
そんな矢先に。
本人にしかわかりませんが、悟っていたのかもしれないです。
最後の最期に本音を家族に言ってくれたのだと、笑いながらだけど最後に初めて泣き顔をみせてくれて。
4人姉弟で、1番みぃと出掛けたり、2人で呑んだりしていたのに私は何も気づいてあげられなかった。
家族の中で1番一緒に居た時間が長いハズなのに泣いたところをみなかったこと、1度もなかったことに気づくの遅かった。
みぃ・・・・・気づいてあげられなかったことゴメンね。
こんな姉でゴメンね。
袢乃や竜がみぃちゃんに会いたいよって子供たちどれだけお前のこと好きなんだって。
お手紙書いたら、みぃちゃんきてくれる?
って毎日お手紙書いてるんだよ。
親より愛されててヤキモチ妬いちゃってるよ。
私もパパも。
葬儀は、身内と昔からの友人でと思っていったのですが、妹の人脈の多さに驚かされました。
本当に、どこから訃報を聞いて参列して下さったのか老若男女問わず20歳代から60、70歳代の数多くの方々。
闘病中お世話になった先生や看護師さんまでも参列してくださり。
参列出来なかった方々からもお悔やみ状や弔電。
こんなにくるもの?
そしてこのブログでも、更新していないにもかかわらず、心配です。ってメッセージをくださる方が多くいて。
私はブログとかものすごく疎いので、ただただ妹と繋がって下さっていた皆さまがこんなにいたんだって。
妹はいったい何者?
そんな風に、今は思っています。
こんなにもいろんな方々に愛されていたのだと。
みぃ。
ありがとう。
次に生まれ変わる時も、私の妹になるんだよ。
これだけ余計なことたくさん書いてってみぃは怒っているかも知れません(^^;
みぃと繋がってくださった皆さまにも、みぃに代わって。
1日1日を、大切にそして皆さまが今日も幸せで笑顔で過ごせることを願っています。
有り難う御座いました。
みぃの姉(亮子)