日中歴史秘話





<上海との関係で決まった幕末> 





●中華街が広東人の町である理由

 しかし現在グルメ人気に沸いている横浜中華街は上海系の中国人の街ではない。多いのは広東系である。

 これは外国商館は中国の買弁を多数つれてきていたからだ。しかも、上海でも買弁は先に開港した香港、広東で買弁になった中国人の利権ビジネスだった。横浜でも買弁といえば広東人のビジネスだった。その子孫が横浜に残ったので横浜中華街は広東人経営の中華料理店が多いのである。


●日本商人と上海商人の戦い

 日本政府はじめ、商社、産地の問屋(売り込み商)には商権を奪われているとの不満が生じていた。明治十五年日本側は「連合荷預所」を設立して、ここを通さなくては輸出しない体制を作る。これに対して横浜居留外商三十六名は連合荷預所を通した取引を拒否した。

 自由民権運動とも共鳴し各新聞のプレスキャンペーンも経済事案では空前の規模になった。最後は妥協が成立したが日本の勝利か敗北かは戦後も議論されている。この時外商からは「日本人は欧米でどこでも旅行、生活、貿易できるが日本で外国人はそういう権利を持っていないので日本人は外商の報復を心配せずに荷預所を作り外商を除外する計画を作るのだ、と批判した。日本の「租界」はこういう効果も表した。事態は不平等条約改正まで解決しなかったのである。





●武器商人スネル、戊辰戦争で活躍

 上海に武器・兵器市場が出来たのは太平天国と清朝の戦いのために急に膨大な武器市場ができたからである。そこに米国の南北戦争(1861年4月~65年4月)の終焉で余剰武器が殺到した。こうした条件は明治新政権に有利に働いたばかりではない開港後まもなく横浜に着て租界の西欧人のために牛肉、牛乳を供給することからビジネスを始めた兄弟がいた。オランダ人ともスイス人ともいわれるが国交が始まったばかりのドイツ領事館員を名乗ったりした。兄のヘンリーと弟のエドワルドである。バテケ=スネル商会が彼らの看板であった。どこの国かハッキリしないのはプロイセンがスイスを併合したりして欧州地図が書き換えられたからだがスネル兄弟は横浜租界の有名人だった。自治組織として「参事会」(上海と似ている)が何度か作られたがヘンリー・スネルはプロイセンの委員であった。

 そのスネル兄弟は横浜租界のインフラ仕事に飽きていた。そこに起こったのが慶応四年三月九日に迫った新潟の開港だった。何回か延期された新潟開港だが横浜に遅れて来た国々の商人はゴールドラシュの予感に胸躍らせた。東北には金山があるという噂もあった。

 スネル兄弟は新潟に支店を開く予定を立てた頃、横浜に武器を買いに来たのが長岡藩の家老・河井継之助だった。例のガトリング砲もこの時に河井のお気に入りの兵器となった。

 戊辰の役と呼ばれる新政府軍と東北諸藩の大戦争でスネル兄弟は単なる武器商人以上の役割を果たした。

 奥州列藩同盟は新潟港を実現させ各国と外交関係を結ぼうとした。新潟港は米澤藩が管理していたこともあってスネルの武器取引は米澤藩と行われ米澤藩が他の藩に配った。

 列藩同盟の中心は新潟に置かれた会議所でスネルはしばしば会議所に訪れ諸藩士に政治上の助言をしていたらしい。スネルは正楽寺に諸藩士を招き「珍味佳肴富士山のごとく」といわれるほどの洋食・和食の豪華な宴会を開一同をあっといわせた。


 スネルは日本名を平松武兵衛と名乗った。ある米澤藩士はスネルの風貌を「平松年(ママ)の頃三十歳前後、眉目清秀、日本製の羽織・マチ高を着、会老候(松平容保)より賜りし小脇差を帯し来る。実に一個の美男子なり」と記ている。

 スネルは会津で鉱山を視察したり「産物見立」のために米澤に赴いたこともあった。諸藩に売り込んだ武器の見返りに産物を開発しようとしたらい。

 スネルはサイゴンに外人部隊がいて日本の戦争に参加しようと機をうかがっている。といって仙台、会津、米澤、長岡の四藩の重役に汽船で迎えに行くことを勧めた。会議所は三千人の兵隊を求めてサイゴン渡航を真剣に検討した。

 こうした話は結局戊辰戦争で奥州が敗北した結果、スネルの大風呂敷で戦前の歴史の中ではスネルは詐欺師のような扱いだった。ヘンリーとエドワルドという二人の人物だったとはっきり認識されたのは最近である。

 しかし直前、新政府軍も上海の武器市場がなければ徳川軍に勝てなかった。スネルと上海の直接取り引きの関係については記録にないが、列藩同盟に売り込んだ大量の武器は上海市場で購入したとしか考えられない。敗色が濃くなった際、ヘンリーは上海に姿を現す。明治元年十月のことである。上海にはパリ万博から帰途の徳川昭武一行がいた。ヘンリーは昭武を函館に誘い、榎本武揚らの函館政府の盟主にしようと交渉して、失敗した。そして二人は日本の歴史の表舞台から消えてゆく。

 ただ上海の武器市場の存在は明治政権の追い風になっただけではない。強敵が手を着ければ逆風になったことをスネル兄弟の活躍は示している。


●洋画の父も上海にゆく

 第四次(慶応3年1月10日横浜出帆~4月6日横浜着)は科学の先進藩として知られる佐倉藩と浜松藩が連合して出した藩主宰のミッションという色彩が強い。九人のうちで明治になって最も名を成したのは日本の油絵の先駆者となった高橋由一だ。うち七八人は長江を遡り南京を見学している。高橋は「豆腐」や「鮭」などで近年見直されている洋画家の祖である。


●明治日本の上海知識人第一号

 この第四次の一行を慶応3年1月20日訪れてきた日本人がいた。岸田吟香という人物だった。岸田は安政6年(1859)に来日した米国の宣教師、医師のヘボンの助手となりヘボンの和英辞典編纂の助手になった。慶応ニ年に幕府が一般人の海外渡航を許したのを受けて上海に行った。ヘボンの英和辞典の原稿が完成して、岸田はヘボンとともに上海に行き印刷所を探し手配していた。この時は約9ケ月で帰国する。

 岸田は画家岸田劉生の父だが、この時、後に日本洋画の第一人者となる高橋由一と絵画に関する話が出たかどうかは記録がない。

 上海には元治元年に密航した画家安田老山が住み着いていたと記録される。日本人一号だった。明治元年には住み着いて商店を開く日本人が百人くらいはいた。蘇州路で小間物屋を開いていた田代屋は旅館を経営し始めた。

欧米に行く場合もいったんは上海に寄った時代。田代屋は有名になった。

 岸田は江戸に帰り明治維新に遭遇する。東京日日新聞の記者となるなど明治初期のジャーナリズムを確立するがその後、上海ビジネスに往き成功する。

 近代化に驀進する明治の日本の枠に嵌らないエリートが上海に渡ったが岸田はその第一号だった。








 上海との関係で決まった幕末は以上です。